「決死のジャワ島脱出飛行(終)」(2019年11月15日)

L−212のプロペラが回り、機体は爆弾の穴を避けながら滑走路を走り始めた。滑走路
と言っても、平坦なただの草地なのだが。

ジャワ島から離れるためにまずインド洋沖合に出たあと、学校教科書の世界地図を頼りに、
機は北北西に進路を取った。西スマトラ西岸部にある島々を目指す。エンガノEnggano島
→ムンタワイMentawai島→バトゥBatu群島を経たあと、スマトラ島の脊椎山脈ブキッバリ
サンBukit Barisanを下に見てメダンに向かった。

日本軍偵察機による哨戒飛行に何度か遭遇したが、その都度逃げおおせることができた。
ところが、まだ日本軍に占領されていなかったメダンの飛行場に接近したとき、連合軍の
対空砲火がかれらを歓迎したのである。日本軍用機の襲撃でないことが地上に判ると、砲
火はすぐに沈黙した。

メダンに着陸した一行は別の歓迎を受け、ペルダーはトバ湖に近いプラパッPrapatに置か
れた蘭領東インド軍スマトラ島中部地区司令部に出頭した。司令官オーヴァラッカー少将
はペルダーに、ジャワとスマトラの最新状況をコロンボの連合軍東南アジア地域司令部に
報告するよう公式任務を与えた。

日本軍のスマトラ島完全占領は1942年3月28日であり、オーヴァラッカー少将の降
伏によってスマトラ島での戦闘が終結している。


ペルダー一行は3月11日にメダンを飛び立ち、まずアチェのロッガLok Ngaに立ち寄っ
た。ロッガには米国爆撃機B-17用の燃料基地が設けられており、コロンボへの渡洋飛
行のための最後の燃料補給がそこで行われた。

ちょうどそのとき、日本軍偵察機が燃料基地上空に出現したため、ペルダーは補給を終え
たL−212を即座に発進させた。実にあわただしい出立だったが、案の定しばらく遅れ
て日本軍爆撃機5機の基地接近が遠望された。

日本軍機による空襲は、前もって偵察機が目標地点に送り込まれるという日本軍の戦術を
ペルダーは熟知していたのである。ペルダー機を見つけた日本軍援護戦闘機が追尾してき
たが、ペルダーは秘術の限りを尽くしてそれを振り切った。燃料基地の運命がどうなった
のかを確認する余裕もなく、L−212は西北西に進路を取った。一路コロンボへの直線
コースだ。


スリランカが視界の中にその姿を現わしたとき、すでに日没が始まっていた。燃料はほと
んど底をついており、おまけに接近するにつれてイギリス軍の対空砲火が火を噴き始めた
のである。ペルダーは海上着水の可能性を考え始めた。

そのとき、新たな考えがかれの脳裏にひらめいた。乗組員に照明弾を打ち上げさせたので
ある。空襲を目的にやってきた敵機が行う行動でないのは明白だ。その意図が地上に伝わ
ると、砲火は鳴りを潜め、代わってホーカーハリケーン戦闘機が接近してきてL−212
をラトゥマラナ空軍基地に誘導した。

コロンボの連合軍東南アジア地域司令部がそのフライトに驚愕したのも無理はあるまい。
戦史に残る飛行を行ったかれら5人はそこで解散し、個々に新たな軍務に就くことになっ
た。ペルダーはオーストラリアに移された蘭領東インド空軍に復帰して第二次大戦を全う
し、最終軍階級を大佐として退役した。[ 完 ]