「トコジュパン(前)」(2019年11月18日)

店を意味するトコtokoというインドネシア語は福建語の「土庫」に由来しているそうだ。
福建語発音はtho-khoとなっている。

何世紀も前から、移住してきた華人(つまり華僑)やその子孫たち(華人系原住民)は行
商で財ができると店を構えた。それが出世ということの象徴だった。

プリブミはそんな店をトコチナtoko Cinaと呼んだ。二十世紀に入ってから、移住してき
た日本人が開いた商店はトコジュパンtoko Jepangとインドネシア人に呼ばれた。

アラブ人やインド人の店はトコアラブtoko Arabやトコクリンtoko Kelingと呼ばれてい
たが、昔のことを書いた記事にはまったく登場しない。トコチナとトコジュパンがそれだ
けインドネシア原住民の生活に強い関りを持っていたということなのだろうか?

トコチナはオルバレジームが始まってその言葉が消滅した感がある。反対にトコジュパン
は日本軍の進攻開始直前に姿を消した。


さて、そのトコジュパンについてインドネシア人が語る話は、東南アジアに日本を震源と
する戦雲が急を告げ始めたころから蘭領東インドにトコジュパンが増加し、店は清潔でよ
く整頓され、店主は腰が低く、客には差別待遇をせず誰にも親切丁寧で、元気が良くて笑
顔を絶やさないといった評判がプリブミの間に確立され、商品も廉かったのでプリブミ社
会の人気が高まった、という話で幕が開く。

ところが大東亜戦争が始まったとき、トコジュパンはみんな店を閉め、日本人は姿を消し
た。そして日本軍が蘭領東インドの各地を制圧し、占領軍がその各地を治めるためにやっ
てきたとき、占領軍幹部の中にいる将校のひとりがトコジュパンの商店主だったことに原
住民はみんな驚いた、というのがトコジュパンについてインドネシア人が物語るストーリ
ーの標準版になっている。

この話は更に、かれらトコジュパンの店主は各町の状況を余すところなくスパイするのを
目的にしてやってきた諜報員であり、日本軍というのはそこまで綿密な計画の下にインド
ネシアに進攻してきたのだという賛辞を引き寄せる。だが国が、あるいは日本軍という組
織が計画的にそれを行ったのかどうかについては、まったく情報が得られないために検証
のしようがない。

言うまでもなく「皇国の南進政策の一助となって身命を賭す」という空気が日本軍進攻の
ずっと以前から国内にあったことも確かであり、個人的行為がその発端だった可能性も大
いにあるとわたしは思うのだが。

Japan at War: An Oral Historyという書籍の中にそのような空気と国家主義者に動かさ
れた青年の物語を見ることができる。日大の学生ノギ・ハルミチは愛国学生連盟への参加
を誘われた。かれをリクルートした人間は、秘密任務を与えるために君をリクルートした
のだ、と言う。話を聞くと、愛国学生連盟は国際反共連盟の下部組織であり、岩田愛之助 
という右翼の大物がその指導者になっている。岩田愛之助なる人物は1926年に蘭領東
インドを訪れ、長期滞在をして各地を見て回った。

あるときノギが岩田愛之助の下を訪れた時、蘭領東インドから戻って来たばかりの青年が
20人いた。かれらはスラバヤをはじめいくつかの町にある百貨店で働き、ムラユ語の習
得に努め、十二分に使いこなせる域に達していた。ノギはそこで蘭領東インド独立のため
に自分たちは何をするべきかという討論に加わり、夢と抱負を抱くようになる。

連盟が目黒に持っている塾の指導者カネコの生徒のひとりが吉住留五郎だった。吉住は早
くから蘭印に入ってインドネシア独立運動の手助けをしていたが、オランダ植民地政庁に
してみれば、日本人が現地でインドネシアの独立支援運動を行うというのは国内かく乱を
狙うスパイの扇動行為ということになる。トコジュパン店主の現地状況把握というスパイ
行為とは多少趣が異なっても、軍事戦略と言うレベルで見るならその間の違いはなくなっ
てくる。

ムラユ語を身に着けたノギは海軍に入り、日本軍の東インド占領時に通訳として活躍した。
インドネシア人著者の書いたTarakan,“Pearl Harbour”Indonesiaと題する書物には、キ
タムラという日本人がオランダ人を欺いて華人業者と思い込ませ、東カリマンタンのタラ
カン島に対日防衛戦のために作る軍事施設の建設を請負い、そのためにタラカン島の防衛
能力の実態が日本軍に筒抜けになっていたという話が書かれている。

東京日日新聞1942年1月14日付け記事の中に「この島にも請負業と雑貨商を営んで
いた北村新吉さん外五、六名の日本人が進出していましたが・・・」という文章が見られ
るので、その北村新吉さんがキタムラであるなら、典型的なトコジュパンスパイ説の実例
と言うことができそうだ。[ 続く ]