「トコジュパン(後)」(2019年11月19日)

蘭領東インドにおける日本人の位置付けが1899年にヨーロッパ人と同じ人種ステータ
スを与えられたことによって、日本人の渡航と居住に追い風が生じたことは疑いもない。

1900年ごろ東インドに居住していた日本人は売春婦や芸者などの慰安婦をメインに5
百人ほどが登録されていたにすぎないが、1940年には8千人に膨れ上がっている。

日本軍進攻前に急増した日本人はほとんどがオープンな社会生活を営まず、何をしている
のかよくわからない暮らしぶりだったそうで、日本軍が進攻してきたときに「かれらは日
本軍のスパイだったのだ」という憶測がプリブミの間に広まった。この話とトコジュパン
の店主の話がどう絡むのか、わたしにはよくわからない。


インドネシア人作家の書いた「かれらはスパイだったのか?」と題する書物には、191
0年ごろに始まって1941年まで続いたトコジュパンの時代にジャワ島にいた日本人た
ちの人種差別意識が記されている。

抜き書きすると、「日本人移住者社会とプリブミ社会の関係があまり活発なものでなかっ
たのは、日本人の原住民に対する視点が上から下への位置関係にあったことに影響されて
いる。実態として日本人はプリブミを劣等視した。ほとんどの日本人がプリブミを、怠け
者で、未成熟で子供っぽく、緊張感を持っていない、と見なした。反対にかれらはオラン
ダ植民地主義が生み出した諸システムを効率的・生産的だと考えて、それに憧れの目を向
けた。」


スカルノ大統領がマルクの母Ibu Malukuという尊称を与えた女性がある。ジャンヌ・ファ
ン・ディーイェン・ルーメンJeanne van Diejen-Roemenは第二次大戦後、数百人にのぼる
マルクのハンセン病罹患者を勇気付けて、世の中で社会の一員として生きるべく指導した
り、またへき地の森の奥に住む文明化の遅れた社会を現代化させることに骨を折った。そ
の事実を知ったスカルノがかの女を絶賛してその尊称を送ったのである。

この女性の生涯を描いたIbu Maluku: The Story of Jeanne van Diejenという書籍から、
日本軍進攻に関連してテルナーテで起こったさまざまなことがらを知ることができる。

1934年にマナドには日本人が経営する小さいチャーター船会社があって、その持ち船
Honun Maruは客の希望するどこにでも行った。北スラウェシからマルクにかけての海域が
主な行動エリアで、その地域にはコプラ農園を持つオランダ人がたくさん住んでいたため、
チャーター客に事欠かなかったせいだ。

地元物産を積んでどこかに送り届けるための航海をしているHonun Maruの姿がよく見うけ
られたし、日本軍のテルナーテ進攻の直前には北マルクからアンボンに大勢のオランダ人
を運んだこともある。

開戦前には、日本の漁船が多数マルク海域にやってきたという話がかの女の耳に入った。
船はカオ湾やモロタイ島の周辺に毎日出没した。ところが情報通の話によると、それは漁
船に偽装した漁船より大型の軍艦であり、海岸線を写真撮影したり、水深を測定したりし
ていたそうだ。

マリエという名の、ジャンヌと親しい日本人女性がいた。マリエはジャンヌに、もうすぐ
日本軍が攻めてくるという話をしたこともある。そして状況が悪化した時に知っておいた
ほうがよい日本語をジャンヌに教えた。ただし日本兵の前では知らないふりをしろ、と言
った。

マリエはオランダの官憲にスパイと疑われ、強制連行されたままオーストラリアに送られ
た。


テルナーテでかなり大きいトコジュパンの息子とジャンヌは親しかった。ところがイガワ
という名のその青年とかれの一家はある日テルナーテからいなくなり、店は閉まったまま
になった。

テルナーテを占領統治するために日本軍がやってきたとき、港に入った船のひとつにイガ
ワが乗っているのを見てかの女は驚いた。かの女が声をかけるとイガワは、「昔は昔、今
は今だ。よく覚えとけ。」と昔の優しく穏やかな様子をかなぐり捨てた怒声で応対され、
ジャンヌは二の句が継げなかった。

テルナーテの副レシデンやオランダ軍上層部の人間を探し出す任務をイガワは与えられて
いたらしい。該当者が「自分はその人物でない。」とごまかして逃げることなど、イガワ
の前でできる話ではなかったということだ。

そのようなできごとがテルナーテで起こっていたのである。イガワの話はインドネシアに
一般的なトコジュパン物語の典型例のひとつにちがいない。[ 完 ]