「オーストラリアを襲ったUボート(1)」(2019年11月20日)

ナチスドイツはヨーロッパ諸国を席巻した後、残った大英帝国が米国と共同して行ってい
る海上封鎖を破って軍需物資を手に入れることと並行して、イギリスがアジアから入手し
ている戦争遂行のための資源輸送を妨害し、また連合軍側戦力をかく乱させるために、イ
ンド洋を主戦域とする潜水艦部隊を設立した。このナチスドイツ海軍東洋派遣戦隊は「グ
ルッペモンズンGruppe Monsun(モンスーン戦隊)」と命名された。

蘭領東インドに関する深い認識をヒトラー総統に与えた人物としてヴァルター・ヘーヴェ
ルという名がよく登場する。へーヴェルの履歴は;
「南の島のUボート」 http://indojoho.ciao.jp/koreg/libuboat.html 
に見られる通りだが、へーヴェルはヒトラーがミュンヘン暴動によって投獄されたとき隣
の房にいた男で、かれが蘭印のことをさまざまにヒトラーにインプットしたのだそうだ。
ナチス政権が誕生した後、1938年に総統とヴァルター・フォン・リッペントロップ外
相がかれを外相付きスタッフにした。

へーヴェルはモンスーン戦隊に直接関係していたわけでなく、モンスーン戦隊の誕生はカ
ール・デーニッツ提督が総督に行った提言によったものらしい。なにしろモンスーン戦隊
が軍需物資輸送を行うようになる以前、連合軍の海上封鎖破りはドイツ側の海上艦船によ
って行われていたのだが、その成功率が50%を切るというきわめてコスト高のものにつ
いていたことから、状況打開策としてデーニッツ提督の行った提言が総督の賛同を得た結
果だったそうだ。


15隻から成るモンスーン戦隊の第一陣は1943年の1月から6月までの間にボルドー
とブレストをそれぞれ出港してマラヤ半島のペナンに向かった。続く第二陣として194
4年秋にU−195とU−219がペナンに向かい、二隻は1945年1月に到着した。

しかし到着早々、日本軍はモンスーン戦隊司令官にペナン基地の閉鎖とジャカルタへの移
動を勧告した。連合軍のマラヤ奪還作戦が迫っていたからだ。

日本軍は最初モンスーン戦隊に対して、シンガポール・ペナン・ジャカルタに基地を置く
ことを認めた。さらにアチェのサバンSabangやジャワのスラバヤもモンスーン戦隊が基地
にしていたという表現がインドネシア語記事の中に出てくる。スラバヤに至ってはドイツ
海軍がドルニエ飛行艇基地を置いたという話まで出てくるのだが、どうやら最初は上の三
か所だけだったようだ。

1943年からナチスドイツの降伏までの間にモンスーン戦隊に加わった潜水艦はUボー
トとイタリアの潜水艦が総計43隻で、最終的には32隻が戦没もしくは消息不明、4隻
がドイツ降伏時に日本軍に接収され、3隻が最終軍令通りに連合国に投降し、祖国の降伏
後に無事帰国できた艦は4隻だけだった。インド洋で没したのは32隻のうちの半分くら
いだったようだ。


連合軍の一角であるオーストラリアに打撃を与えるべく、モンスーン戦隊にオーストラリ
ア南西海域で軍事行動を行うように勧めたのは日本軍だった。ドイツ海軍にとってオース
トラリアはイギリスを支援する作戦行動に出てくるときにかぎって目障りな存在になるだ
けであり、オーストラリアという国を獲物にしたがっているのが日本であることは熟知し
ていたから、オーストラリアの沿海で作戦行動を行うのはドイツの国益のためでなく、同
盟国日本に対する協力支援にとどまるものであることはどのドイツ人にとっても明白だっ
た。

日本側の要請にベルリンのデーニッツ提督がOKを出し、モンスーン戦隊に作戦指令が出
されたのは1944年9月だった。だがそのころには、マッカーサーを司令官に戴く連合
軍南西太平洋地域司令部は、ニューギニア島戦を完了させてオーストラリアの安全を確保
したあと、必ず戻ってくると豪語したフィリピンへの胸元に当たるモロタイMorotai島に
反攻の筒先を突き付けていたのである。[ 続く ]