「オーストラリアを襲ったUボート(2)」(2019年11月21日)

モンスーン戦隊のオーストラリア作戦がまったく時宜を失していたことは、その恩恵を享
受すべき日本軍にとってまるで焼け石に水のことがらであった以上に、ドイツにとっても
まったく無意味な軍事行動であったと言えるだろう。ましてや、そんな作戦で戦没した艦
と乗員にとっては、無意味の骨頂だったにちがいあるまい。だが、それこそが太古から戦
争というものが紡ぎ出してきた人間の愚行の山なす一塊なのである。


モンスーン戦隊のオーストラリア作戦に一番手として出撃したのはU−168だった。1
944年10月5日にジャカルタのタンジュンプリオッ港を出てスラバヤ港に寄ってから
東に進路を取った。

だがその作戦行動はオーストラリア側に筒抜けになっていた。日本軍の暗号通信を連合軍
は完ぺきに解読していたそうだから、スラバヤの日本海軍が重要連絡として友軍ドイツの
Uボートの行動計画を諸所に通知すれば、連合軍に筒抜けになるのも当然のことだ。

オーストラリアの連合軍は即座に迎撃態勢を取った。フリマントルを基地とするイギリス
海軍第8潜水艦隊指揮下にあったオランダ海軍潜水艦ズワルトフィッシュZwaardvischは
9月26日に東部海域パトロールに出て、10月1日にロンボッ海峡を通過していた。そ
の艦にUボート迎撃の指令が届いたのである。10月6日早暁、ジャワ島東部海岸沖合に
出たズワルトフィッシュの潜望鏡にUボートの艦影が捕らえられた。

絶好の態勢と見て取った艦長は6本の魚雷を発射させた。そのうちの2本が命中し、一本
だけが爆発した。U−168は急速に沈没して行った。


その次にオーストラリア作戦に従事したのはU−537だった。11月9日にスラバヤを
発してからロンボッ海峡を抜けてダーウィンに向かい、それからオーストラリア北西海域
で軍事行動を行う計画だ。日本軍は再びその友軍艦の行動計画を関係諸所に通知した。U
−537の命運は出港する前に、すでに確定してしまった。

11月6日、ダーウィンの米国海軍潜水艦隊に出動命令が出された。潜水艦フラウンダー
Flounder、グアヴィナGuavina、バショーBashawの三隻が、作戦計画を練り上げた上でU
ボートを出迎えに立つ。

11月10日朝、三隻はロンボッ海峡北側に散開してUボートの接近を待った。小さい船
影が遠望され、15分後にそれがUボートと確認された。フラウンダーは1千ヤードの距
離から魚雷4本を発射。その一分後に巨大な爆発が起こり、U−537は20秒で視界か
ら消えた。


そのあとオーストラリア作戦に出撃したのはU−862で、先の二隻が沈められたのを知
らないまま11月18日にジャカルタから壮途に就いた。ジャカルタからスンダ海峡を通
過すると、一路インド洋を南下した。僚艦がオーストラリア西岸海域で行動していると考
えたU−862はオーストラリアの南部から東部までを作戦域に決めた。

オーストラリア西岸南端に近いルーウィン岬Cape Leeuwinを11月28日に通過してから
東方に向かい、アデレードに近いジャッファ岬Cape Jaffaで12月9日にギリシャ武装商
船と交戦し、自己の存在を示したために連合軍に追跡される破目に陥る。

その後、タスマニア島を大きく南に迂回してからオーストラリア大陸に接近し、メルボル
ンからシドニー沖まで軍事行動を行った後、連合軍の追跡を受けたためにニュージーラン
ドに向かい、ニュージーランド東岸を一周した。そのあとシドニー海域に戻ることにして
西行したが、連合軍のマラヤ・シンガポール進攻作戦が1945年1月19日に始まる見
込みであるためジャカルタに帰港せよとの指令を受けたことから、オーストラリア作戦を
中止してインド洋まで戻った。[ 続く ]