「クレン」(2019年11月29日)

ライター: 短編作家、メディア就労者、レイニーMPフタバラッ
ソース: 2017年8月12日付けコンパス紙 "Keren"   

あるとき友人のひとりが、機中から撮影した日の出の光景を数枚、ソスメドに掲載した。
大勢の仲間から「Keren!」というコメントが寄せられた。別の折り、わたしはバティック
の亡母のサルンを着用したことがある。友人の中から「Kamu keren!」という賛辞が聞こ
えた。友人のひとりが書いたものが有力新聞のひとつに掲載されたときソスメドグループ
の数人から、書かれたものであれ口頭で述べられたものであれ、「Keren!」という賛嘆が
上がった。

国語センター編纂インドネシア語大辞典(KBBI)第四版に単語kerenは;
(1)tampak gagah dan tangkas;
(2)galak, garang, lekas marah;
(3)lekas berlari cepat (tentang kuda);
(4)perlente (berpakaian bagus, berdandan, rapi, dan sebagainya)
と語義が示されている。

インドネシア語シソーラスTesamoko第二版はkerenの同義語として、aksi, elegan, flam-
boyan, kece, mentereng, necis, perlente, elok, menawan, rapi などを挙げている。

KBBIの語義とテサモコの同義語を見る限り、クレンは人物や物事の性質や形象に表れ
る「見た目」という面に関わっているようだ。flamboyan, perlente, gagah, tangkas並
びにlekas marah, galak, garangなどの性質でもそうだ。ところが日常生活でクレンとい
う言葉は人間の性質や見かけと関係なく、素敵で美しく、クオリティの高いものを表現す
るのにも使われている。


KBBIやテサモコに収録されているとはいえ、クレンの用法はバハサガウルであり正式
インドネシア語でないと見られている。文書の中に出現したとしても、それは口語あるい
はバハサガウルを書いたものと見なされる。詩人は美しいもの・魅惑的なものを表現する
ためにクレンの語を詩の中に使うことをしていない。同様に、ある作品をほめようとして
クレンの語を文芸批評家が使った例に、わたし自身お目にかかったことがない。

言葉は本質的に生き物であるから、日常生活に使われる言葉は辞典に記された定義付けを
飛び越えて、果てしなく発展することもある。クレンは、社会生活とソスメドが語義を広
範で複雑なものに変えていった例のひとつにすぎない。ただしわたしは、bermutu, bagus,
indah, necis, anggunなどの言葉で賞賛されるべき学術論文や絵画・文学・写真に至るあ
らゆるものに対して、短く端的で人口に膾炙している一語を使って賛嘆や賞賛を表現しよ
うとする傾向がそこにひそんでいるのではないかと疑っている。このコンテキストにおい
てクレンは、wah, o, astagaなどの感嘆詞と同列に置かれることになる。リテラシーパー
スペクティブから見れば、言語とイメージの単純化や貧困化が起こっているのである。ク
スプルスKoes Plusの作品Kolam Susuの歌詞に見られる祖国を極楽に描いたような表現は、
そこに期待しようもない。
bukan lautan hanya kolam susu
kail dan jala cukup menghidupimu
tiada badai tiada topan kau temui
ikan dan udang menghampiri dirimu


クレンの使用が拡大しているのは、より詳細に叙述するということがらばかりか、スマホ
やタブレットの文字を打つことさえ面倒がる怠惰さに促されているのではないかという疑
いもある。ソスメドではそれどころか、kerenという文字を書く代わりに頻繁にサムアッ
プや類似の意味を持つエモーティコンで代用されることもある。4万年前のエジプトのヒ
エログリフ時代か、あるいは古代世界の諸文化が出現させた象形文字時代さながらだ。

教育の分野では学生生徒に学術的な文章を書かせる場で、かれら自身の思考内容を述べる
際にエモーティコンなどが使われたら容赦はされない。印刷メディアも同じだ。デジタル
時代は広がって、何十万年も昔に行われていたような象形文字によるコミュニケーション
を生き返らせているのである。