「ジャワ海に眠る重巡エクゼター」(2019年12月02日)

2008年7月にインドネシアを表敬訪問したイギリス海軍フリゲート艦ケントHMS Kent
は、スラバヤ港で数日を送ってから27日にジャカルタのタンジュンプリオッ港へ移動し
た。

駐インドネシア英国大使と大使館国防担当アタシェや国際的報道関係者4人らの乗船した
その航海でケントは、ジャワ島北岸部沿いに西に向かうジャカルタへの通常航路を取らず、
スラバヤ港からまっすぐ北におよそ150キロ離れているバウェアンBawean島の北西方向
へと向かったのである。そこは2007年にオーストラリア人ダイバー4人が発見したイ
ギリス重巡エクゼターの残骸が61メートル下の海底に横たわっている場所だった。招か
れたその4人の発見者(ダイバー)の姿も船上にあった。

バウェアン島北西140キロ、カリマンタン島南岸からはおよそ80キロ離れている海上
でケントは停船し、総員が甲板に整列して鎮魂歌を歌い、ふたつの赤い花輪を海に投げた。


1942年2月27日にジャワ海で行われた連合軍艦隊と日本軍との海戦に参加したエク
ゼターは夕方、機関部に砲弾を受けて大破し、運動困難に陥った。艦隊司令官カレル・ド
ールマン提督はエクゼターにスラバヤへの帰投を命じ、駆逐艦ヴィテデヴィットを護衛に
付けた。この海戦の詳細については、
「月明のジャワ海に没す」 http://indojoho.ciao.jp/koreg/libjawac.html 
がご参照いただけます。

スラバヤで修理後エクゼターは、蘭領東インドからセイロン島に脱出せよとの指令を受け
て、28日夕刻に駆逐艦ポープとエンカウンターの随行でスラバヤを後にした。

3月1日昼頃、三隻の戦隊はバウェアン島近くで日本艦隊と遭遇し、海戦が始まった。エ
クゼターはまたも機関室に被弾して運動力を失い、日本軍駆逐艦の雷撃を受けて13時3
0分に沈没した。続いてエンカウンターが13時35分に砲撃によって沈没した。

ポープは戦域を脱出したものの、日本軍偵察機の執拗な追跡から逃れることができず、や
ってきた爆撃機隊の空爆で動けなくなり、日本軍艦隊に包囲されて15時30分に沈没し
た。


その海戦で沈んだ三隻の乗員のうち8百人が日本軍艦艇に救出され、全員がマカッサルで
捕虜として収容された。収容所暮らしはジャワやアンボンと同様に過酷なものであり、拷
問が行われ、食べ物は欠乏し、脱走者はほぼ確実に捕まって連れ戻されてきた。かれら脱
走失敗者に対しては、断頭処刑が行われた。

捕虜の中に、インドネシア語を熱心に学んだ者がいたのは、それがサバイバルに直結して
いたからだ。かれらは自分の持ち物を原住民とバーターして食べ物に替えた。

かれらの学んだインドネシア語は、Apa kabar?やBerapa harganya?などの生活決まり文句
のほかに、Saya bukan orang Belanda.というものもあった。原住民の自分に対する待遇
を好転させるかもしれないその言葉がズバリ効果をあげ得たかどうかは保証の限りでない
のだが。