「ジャヤプラのマッカーサー」(2019年12月03日)

第二次大戦におけるニューギニア島での戦闘は、この戦争の趨勢に転回点をもたらしたも
のだった。この島での戦争は1942年3月8日に日本軍が東部海岸にあるラエとサラモ
アに上陸して口火を切った。

その当時ニューギニア島は西半分がオランダ領、東半分は北側がオーストラリア委任統治
領、南側はオーストラリア領だった。つまり日本軍はオーストラリアという国に攻め込ん
だことをそれは意味しているのである。オーストラリアを含む連合軍と日本軍がニューギ
ニアという島で戦争をしたという理解とは少々すれ違うことになる。

連合軍が行った東部ニューギニアでの徹底的な日本軍叩きと西部ニューギニアでの要所だ
けを抑える飛び石作戦を比較して見るなら、その違いを生み出した要因のひとつがそこか
ら見えてくるに違いあるまい。もちろん、要因のひとつでしかないことは言わずもがなだ
ろうが・・・。


連合軍がオランダ領ニューギニアへの進攻を開始したのは1944年3月末からで、ホラ
ンディア(現在のジャヤプラ)が皮切りとなった。連合軍がホランディアを陥落させてか
ら、マッカーサー司令官はオーストラリアからそこへ南西太平洋地域司令部を移し、フィ
リピンに帰還する道を歩み始めた。

ホランディアの連合軍司令部は現在のスンタニSentani市にあるイファルIfar山頂上に置
かれた。今ではインドネシア語の法則に従ってGunung Ifarと呼ばれているが、当時は英
語式にIfar Gunungと呼ばれたようだ。イファル山はシクロープ山系Pegunungan Cycloop
に属す標高325メートルの山で、今はマッカーサー丘Bukit MacArthurあるいはBukit 
Makaturという名称の方が通りが良いらしい。そこはスンタニの町から4キロの距離にあ
る。

丘の上に司令部を設けたのは日本軍の空襲を発見しやすいという利点を最優先したためだ
そうだが、そこから見下ろすスンタニ湖の風景も素晴らしいものだ。眼下にはスンタニ空
港の滑走路が見え、そしてスンタニの町が広がっている。

司令部のあった場所にはマッカーサーの碑が建てられている。その地区一帯はインドネシ
ア陸軍第17/チュンドラワシ軍管区司令部中核連隊の監督下にあって、外部者の出入り
は手続きが必要とされており、マッカーサーの碑兼博物館の見学は管理担当者がそこにい
ないと中を見ることができない。博物館は開場時間が8時〜18時半であるものの、管理
担当者が外出する場合は施錠されるそうだから、そこの見学は運不運の問題になりそうだ。

ジャヤプラでマッカーサーが尊敬される人物になっているのは、碑が建てられ、博物館ま
で設けられていることが物語っている通りだ。スンタニの町もマッカーサーが作ったと言
われている。この町にはパプア州博物館Museum Negeri Provinsi Papuaもある。

ジャヤプラの町の観光スポットはそのほかに、連合軍がホランディア上陸作戦を敢行した
海岸のあるデパプレDepapre地区で、連合軍はそこに巨大な燃料タンクを置いた。それ以
前に日本軍がやってきたときも、その同じ海岸に上陸したそうだ。

スンタニの町から近いスンタニ湖岸に接するドヨラマ部落Kampung Doyo Lamaには、古代
パプア人が遺したとされている巨石文化遺跡がある。そこではメンヒルやドルメン、そし
て石に描かれた絵などを見学することができる。


パプアではマッカーサーばかりがもてはやされているのかとがっかりするには及ばない。
西パプア州マノクワリManokwariには、ジュパンの碑Tugu Jepangが建てられている。

マノクワリの港から北東部にあるメジャ山Gunung Mejaの森林内に建てられているその碑
は、連合軍のマノクワリ進攻を受けて戦った日本軍第221・222師団を記念するもの
であるというインドネシア語の説明になっているのだが、正確には師団でないようだ。

マノクワリに配備された日本軍はメジャ山を最終防御地点として麓にたくさん壕を作った。
戦後、日本政府が遺骨収集に訪れたとき、地元政府と合同でジュパンの碑を建てたと言わ
れている。

最近では2019年11月17日にマノクワリ市内南マノクワリ地区の建築現場で226
個という大量の砲弾と信管が土中から掘り出された事件が報告されている。