「翻訳」(2019年12月03日)

ライター: アッマジャヤ大学名誉教授、K ベルテンス
ソース: 2018年10月6日付けコンパス紙 "Menerjemahkan"

イタリア語の有名なことわざがある。「traduttore, traditore」その意味は「翻訳者は
裏切り者」だ。原語の文章を百パーセントその通り別の言語に移し替えるのは不可能であ
り、その結果訳文はどうしても原文を裏切ってしまうということを、そのことわざは述べ
ている。そのイタリア語の原文自身が、それが述べている内容にとっての最適なサンプル
である。

イタリア語トラドゥットーレは翻訳者、トラディトーレは裏切者を意味している。それぞ
れの対応語の関係は明白であり、おかしな点はどこにもない。ところがそのことわざを全
体として翻訳しようとすると、困難が起こる。二つの単語は-ut-と-i-が置き換わっただ
けのものであるにもかかわらず、二つ並んだよく似た単語がきわめて深遠な意味を表して
いる。それを発音すれば、諧謔さと深遠な意味がない交ぜになって浮かび上がってくる。
それを他の言語、たとえばインドネシア語に翻訳したとき、Penerjemah adalah peng-
khianat.を発音しても、諧謔さはどこにも出現しない。


翻訳の難しさが常に同じ方法で感じられるわけでないのは真実だ。取り違えようのないシ
ンプルな情報を言葉で伝える場合、翻訳の難しさはまず感じられないだろう。たとえば交
通規則。左折禁止、一方通行、駐車禁止、スピード制限時速60キロ以下、等々の言葉を
別の言語に翻訳するのは難しくないだろう、こうして、あらゆる国で使うことのできる国
際交通標識を作る可能性が開かれる。

ところが、翻訳されるべき原文がもっと複雑なものになると、翻訳者にとっての難しさが
増加することになる。クオリティの高い文芸作品、中でも韻文を翻訳しなければならなく
なった場合、翻訳者は何層倍ものチャレンジに立ち向かわざるをえない。それゆえに、ウ
イリアム・シェークスピアのドラマやソネットを原語で読むことができなければ、われわ
れは大損するわけだ。

言葉はその中に込められている意味や思念の単なる外衣ではない。だから、翻訳という行
為が単なる着せ替えでは済まないのである。外衣を脱がしてその中身に別の衣をきれいに
着せるということではないのだ。

そうではなく、意味はある方法で言葉と一体化している、言い換えれば、意味は口述され
たり筆記された言葉の中に表出しているのである。だからその翻訳がそれに触れないで行
われることはあり得ず、またそれに触れることによって元のものが多少なりとも損なわれ
ることもなしではすまない。翻訳されたとき、原意は元通りのままではあり得ないのであ
る。

意味が口述された言葉や筆記された文章の中にだけ存在しているのではないことを悟った
とき、状況はもっと複雑になっていく。本当の意味を把握するために、文脈に注意を向け
ることも、劣らず重要なことだ。プロの外交官は相手の述べることがらに注意を向けるだ
けでなく、文脈から相手のボディランゲージまでを視野に入れている。相手の述べた「イ
エス」という言葉は掛け値なしのイエスなのか、確信のないイエスなのか、それとも真意
が「ノー」であるイエスなのか?

優れた翻訳者は原語である外国語を深くマスターしているだけでなく、上述の外交官的才
能を多少なりとも駆使して、隠れた意味に迫る能力を持たなければならない。翻訳という
行為は決して容易な仕事ではないのである。