「嘆きのモロタイ島(1)」(2019年12月09日)

北マルク州最大の島ハルマヘラHalmahera島の北側に連なっている面積2,476平米の
島がモロタイMorotai島だ。昔からテルナーテTernateスルタン国の領土になっていて、オ
ランダ植民地政庁はテルナーテのスルタンを通して原住民支配を行っていた。今は北マル
ク州モロタイ島県として、ひとつの行政区域をなしている。人口はおよそ5万5千人。

地場産業は昔ながらの漁業と農園業。漁民の中には、フィリピンの漁船に乗って働いてい
る者も少なくない。辺境の島々のたいていがそうであるように、この島も貧困に覆われて
いる。ほんのわずかな期間、運命がこの島に膨大な量の物資をもたらした時期を除いては。

日本軍がやってくる前、この島の住民は9千人で、ハルマヘラ島に近い島の南西部(ダル
バDaruba地区、英語記事の中にDaroebaと綴られた名称が混じっているが、当時オランダ
人が用いていた綴り方はoe = uであった。「ニッポニサシ、つまり日本化」(2019年
10月21日)をご参照ください。)にほとんどが住んでいた。日本軍は1942年に北
マルクを占領したものの、モロタイ島には戦力らしい戦力を置かなかったようだ。

1944年になって、連合軍のフィリピン奪還作戦に対する防備として北マルク地域への
戦力増強が試みられ、ハルマヘラ島に司令部が置かれてモロタイ島には飛行場が建設され
たが、その飛行場は水はけが悪くて使いものにならないことから、小規模な守備隊が広い
島を防衛することになった。日本軍はハルマヘラ島を固めてモロタイ島を軽視したことに
なる。マッカーサー大将はそこに付け込んだ。


1944年9月15日早朝、5万7千人という連合軍の大軍団が3千機もの航空兵力に援
護されてモロタイ島を占領するために襲来した。二時間の艦砲射撃が続けられた後、兵団
が続々と島の最南端にあるデヘギラDehegila岬西岸に上陸してきたが、日本軍の抵抗はほ
とんどなかったそうだ。

15歳のときにその戦争を体験した南モロタイ郡ワワマWawama村の住民は、そのとき空を
覆っていた連合軍航空機の数は夜空の星くらいあり、空から絶え間なく降ってくる爆弾で
地面は揺れ続けた、と述懐している。


島の南西部地域を占領した連合軍は、フィリピン進攻をバックアップする大型基地の建設
に邁進した。たびたび行われた日本軍の反撃を抑えながら工事は進められ、10月4日に
1千5百メートルの滑走路が作られてワマドロームWama Dromeと名付けられ、さらに10
月17日にはピトゥドロームPitu Dromeと呼ばれる2千1百メートルの第二滑走路も完成
して、大型爆撃機の編隊が戦略拠点に爆弾の雨を降らせるために飛び立って行った。

そのピトゥドロームが現在モロタイ島にあるレオワティメナLeo Wattimena空港である。
レオワティメナ空港が以前、ピトゥ空港と呼ばれていたのは、その地名を引き継いだため
だ。レオワティメナ空港へ行くには、一旦テルナーテもしくはマナドへ飛んでから乗り継
がなければならない。


飛行場が、そしてそこを基地とする大型機を主体にした253機の軍用機が必要とする燃
料や修理等のための諸物資と施設、病院を含めて6万人の兵員が生活するための諸施設、
基地防衛に配備されている艦艇にも維持と修理のための諸施設といった、気の遠くなりそ
うな大型基地がモロタイ島に作られたのである。

昔ながらの生活をしてきた原住民にとって、思ってもみなかった文明の到来が起こったに
ちがいあるまい。ただし昔にも文明の到来はあった。ポルトガル人が宗教宣布のためにや
ってきたのである。ところが今回なだれ込んできた機械文明は戦争のための文明だった。
原住民がその文明を享受することはあり得ない話だ。原住民が享受できたのは、去って行
った軍隊が島に残した金属スクラップだった。

それはともあれ、大型基地建設の邪魔になる土地に住む原住民は立ち退きを強いられ、か
れらの生活領域は狭められた。「戦争だからやむを得ない」は侵略者たちにとっての論理
であり、原住民にとってその戦争はいい迷惑でしかなかったことだろう。[ 続く ]