「嘆きのモロタイ島(3)」(2019年12月11日)

マッカーサーがフィリピンに去ったあと、司令官宿舎は放置されたままになり、その住居
も、また舟橋や海底パイプも消え失せた。1980年代にたくさんの鉄スクラップがジャ
ワに運ばれて製鉄会社の溶鉱炉に投げ込まれたそうだ。マッカーサー司令官の宿舎跡には
大将の立ち姿を模写した高さ20メートルの巨大な像が建てられて、ダルバの町に向かっ
て海を睥睨している。


スムスム島から7.5キロほど北西に向かうとドドラ島がある。4キロほど離れた大ドド
ラ島Pulau Dodola Besarと小ドドラ島Pulau Dodola Kecilの間には干潮時に砂浜が出現し
て地峡ができ、歩いて渡れるようになる。満潮時には海中に沈むので、船で渡らなければ
ならない。その砂浜でマッカーサーはよく日光浴をしていたそうだ。

モロタイ島の連合軍基地が用済みになったとき、連合軍は地元民を集めてお別れパーティ
をドドラ島で開いた、と当時15歳だった上述の住民は物語った。砂浜は人間で埋め尽く
され、地元民の多くが短期間とはいえ慣れ親しんだ連合軍兵士たちとの別離を悲しんだそ
うだ。
そのころ米軍兵がよく唄ったり口笛を吹いたりしていた曲の一部をかれはいまだに覚えて
いた。言うまでもなく、かれは曲のタイトルを知らなければ、歌詞の内容も一言も理解で
きない。記者が調べたところ、その曲は1943年に流行ったビング・クロスビーとアン
ドリューシスターズが歌うPistol Packin' Mamaだったらしいということが判明した。

そのドドラ島の近くにあるカパカパKapa-kapa島は一対の巨大な岩礁が海上に屹立してい
るだけの島だが、遠くから見ると軍艦の形に見える。連合軍はこの島に点滅灯をそれらし
く置いて艦船に偽装した。ハルマヘラの日本軍基地はモロタイ島の連合軍に対して午前3
時から6時と夜19時から21時に夜間空襲を行っていたが、日本軍機はその艦船に偽装
された岩めがけて頻繁に攻撃を行っていた、と地元の歴史家は語っている。


モロタイ島の軍事基地がその役割を終えた後、連合軍が置き去りにした十分使用に耐える
武器・兵器・弾薬、爆弾、装甲車、艦艇、航空機などは戻って来たNICAがニューギニ
ア島に移してオランダ領ニューギニアの防衛力強化に使った。

それでもすべての軍用機材が運び去られたわけではない。小破しているだけのものや、役
に立たないとオランダ人が考えたものも大量に残されていた。艦艇・ジープ・装甲車・戦
車・武器・船着き場の鉄柱、そして既述のマッカーサーのために使われた舟橋や送水パイ
プなどなど。

1970年ごろから、この鉄の宝の山を何かに使えないかと考える住民がちらほらと現れ
た。鋼鉄やアルミなどの金属を素材にして、ひとびとは素朴な設備を使って工芸品を作り
始めた。白鋳鉄から腕輪・ネックレス・イヤリング・チェーン・数珠・日本刀などが作ら
れ、テルナーテやハルマヘラ島北部の店に送られて販売されている。モロタイ島にはこの
種の事業を行っている住民の工房が50カ所ほどあるそうだ。月収1千万ルピアくらいの
売上になるという。

1980年代になって、製鉄事業を行っているジャワの国有事業体が故鉄を集め始めた。
モロタイ島に転がっている大量の鉄くずを手に入れようとして、故鉄買取屋がやってきて、
住民は降ってわいたようなそのゴールド(鉄くず)ラッシュに呑まれた。拾って持ってい
けば金になるのだから。[ 続く ]