「ジャワ島の米軍戦闘機隊(1)」(2019年12月27日)

オランダ植民地政庁がスラバヤに設けた飛行場はタンジュンペラッTanjung Perak港のす
ぐそばだった。シドアルジョSidoarjo県スダティSedati郡のジュアンダJuanda国際空港が
ある場所ではない。ジュアンダ空港の建設工事は1960年に開始され、1964年に稼
働が始まっている。

植民地政庁は5年の歳月をかけてスラバヤ最初の飛行場をモロクルンバガンMoro Kremba-
nganに作り、1926年に完成させた。モロクルンバガンはタンジュンペラッ港南側に隣
接しており、現在のインドネシア共和国海軍博物館がある地区だ。この地区の南側は湾に
なっていて飛行艇の離発着が容易に行える。この飛行場には、格納庫から飛行艇を海上に
押し出すための傾斜路が何本も海中へと下っていた。もちろん通常の航空機も使えるよう
に、X字型に交差する1千4百メートルと1千5百メートルの二本の滑走路も内陸側に作
られていた。

ポロンPorong⇔タンジュンペラッ自動車専用道でスラバヤ港へ向かう際に、自動車道は終
点手前で巨大な池の上を渡り、しばらくしてからまた左手に海を見て走る。その海が終わ
ってから左手にまた陸地が出現するのだが、その左手の地区がモロクルンバガンである。

日本軍のスラバヤ空襲はタンジュンペラッ港とモロクルンバガン飛行場を攻撃目標として
行われたし、連合国空軍機はモロクルンバガンから飛び立ってきた。1945年10月か
ら始まったスラバヤの戦闘でも、イギリス空軍機はモロクルンバガンを利用した。日本軍
の占領直前のスラバヤの様子は;
「バリ島のミュリエル」 http://indojoho.ciao.jp/koreg/ymuriel.html
戦後起こったスラバヤの戦闘前後のスラバヤの様子は;
「スラバヤ・スー」 http://indojoho.ciao.jp/koreg/hsubsue.html
「スラバヤの戦闘」 http://indojoho.ciao.jp/koreg/hbatosur.html
でご覧いただけます。


ところで飛行場と空港は意味する概念が異なっている。飛行場は飛行機が発着する場所と
いう側面に焦点を当てている一方、空港は発着する飛行機で運ばれる貨物や乗客が通過す
る港という側面を中心に据えている。だから空港はすべからく飛行場でもあるのだが、軍
用機専用の飛行場が空港と呼ばれることのないように、飛行場がすべて空港の機能を有し
ているわけでもない。

インドネシア語もおおむね、飛行場はlapangan terbangあるいはlapangan udaraと呼ばれ、
空港はbandar udara略してbandaraと呼ばれている。lapangan terbangはmesin terbangが
出入りしているlapanganであり、bandar udaraは海に面している海港でなく、空に面して
いる港だということなのだろう。

bandarという語は、KBBIにはいくつかの語義が当てられており、同一の単語がそれら
の語義に分岐したとは思えないから、それらは同音異義語と理解されるべきもののようだ。

港を意味するbandarはペルシャ語源の単語で、歴史の中で港が往々にして港市に発展した
ことから、bandarは商港都市をも意味する言葉になった。東南アジア海洋部にはバンダル
の語を伴った港町がたくさん見つかる。ジャカルタにもバンダルの名が冠せられ、クロン
チョン歌謡のタイトルにもされた。ユーチューブでKeroncong Bandar Jakartaをお愉しみ
あれ。

インドネシア語でbandarという単語は港市/商港都市からさらに都会という語義にシフト
してきている印象をわたしは受けるのだが、マレーシア語での用法はその点、港市/商港
都市の語源を維持し続けているように見受けられる。そのうちにインドネシア人が海を持
たない大都市をバンダルと呼ぶようになり、マレーシア人がそれに引きずられて語源から
離れていく可能性がなきにしもあらず、かもしれないのだが。[ 続く ]