「行政区画名称の変遷(2)」(2020年01月07日)

直接統治地区では、植民地政庁がpangrehprajaと呼ばれる地域首長を任命して地元行政を
行わせた。行政ヒエラルキーの下層部分はオランダ人やヨーロッパ人が常に指名されると
も限っておらず、むしろ昔からのプリブミ支配層であるプリヤイ階層が起用される傾向に
あったようだ。

ジャワ・マドゥラでの行政ヒエラルキーは次のようになっていた。
Propinsi(Provincie)  首長はGubernur
Karesidenan(Afdeling) 首長はResiden
Kabupaten(Regenschap) 首長はAssisten Residen, Regent, Bupati
Kawedanan(District) 首長はWedana, Kepala Distrik
Kecamatan(Onderdistrict) 首長はAssisten Wedana, Kepala Onderdistrict
Desa 首長はKepala Desa

外島(ジャワ・マドゥラ以外)の場合は下の通り。
Propinsi
Karesidenan
Afdeling
Onder Afdeling
Kawedanan/District
Kecamatan/Onder District
Desa/Marga/Kuria/Nagari


それまで行われていた、すべての行政の紐が総督の手元に手繰り寄せられてくる中央集権
スタイルが、20世紀に入ってから変化した。1903年に定められたDecentralisatie 
Wet(Staatsblad 1903 No.329)で東インド住民の文明化を促進させるための住民自治の道
が開かれ、その施行細則としてDecentralisatie Besluit(Staatsblad 1905 No.137)や
Locale Raad Ordonantie(Staatsblad 1905 No.131) が定められて実施に移された。

1922年になってジャワ・マドゥラでは自治行政区としてpropinsiの下にkabupatenと
kotaprajaが併存するようになったり、スマトラではパレンバンや西スマトラのkaresidenan
にパレンバンやパダンといったgemeente(kotapraja)が設けられ、首長であるwalikotamadya
には徐々にプリブミが就任するようになっていった。地元議会Locale Raadも編成されて地
元の自治行政と監督の二人三脚が推進されるようになる。


そのような状況が習慣化したころに日本軍がやってきた。日本軍はインドネシアを三つの
行政区に分割した。ジャワ・マドゥラは陸軍第16軍がジャカルタを首府としてジャワ軍
政監部を置き、スマトラは陸軍第25軍がブキッティンギを首府にしてスマトラ軍政監部
を置いた。それ以外のインドネシア中部から東部にかけての全域は海軍が統治し、マカッ
サルを首府にしてセレベス民政部を置いた。

日本軍政はオランダ式行政区ヒエラルキーからpropinsiを削除して、次のようなシステム
に変えた。ジャワ・マドゥラは次のように変化したのである。
州sjuu (karesidenan) 首長はsjuu tjookan (residen)
市sji (kotapraja) 首長はsji tjoo (walikota)
県ken (kabupaten) 首長はken tjoo (bupati)
郡gun (distrik) 首長はgun tjoo (wedana)
村son (kecamatan) 首長はson tjoo (camat)
区ku (desa) 首長はku tjoo (kepala desa)

最初はトップダウンの中央集権方式で始まった行政スタイルは、戦局の悪化にともなって
自治方式が強められ、議会も発言や提案が促されるようになっていった。

ジャカルタに設けられた議会は中央参議院、州議会は州参議会、ジャカルタ特別市は特別
市参議会などの名称で呼ばれた。ただし、住民の選挙による行政首長や議員の選抜などは
まったく行われていない。[ 続く ]