「行政区画名称の変遷(3)」(2020年01月08日)

独立インドネシア共和国になってから、それはどう変わったか。1945年8月7日、独
立準備調査会Panitia Penjelidik Oesaha-oesaha Persiapan Kemerdekaan Indonesiaの後
を継いで設けられた独立準備委員会Panitia Persiapan Kemerdekaan Indonesiaは8月1
8日に憲法草案の審議を行って最終確定させたものをその日布告し、施行した。続いて8
月19日には全国の地方行政区画システムを確定させて、その最高責任者を任命した。地
方行政区画は次のように定められた。

最高位の地方自治体がpropinsiであり、次の8州が全国をカバーした。ただしパプア島と
東ティモールはその当時まだインドネシア共和国に含まれていない。また、日本軍政下に
候地となったヨグヤカルタスルタン国やスラカルタスナン国などはそのまま候地という立
場が継続されたので、共和国州知事の統治行政を受ける位置にまだ置かれていない。
Propinsi Jawa Barat  首府Bandung
Propinsi Jawa Tengah  首府Semarang
Propinsi Jawa Timur  首府Surabaya
Propinsi Sumatra  首府Medan/Bukittingi
Propinsi Borneo (Kalimantan)  首府Banjarmasin
Propinsi Sulawesi  首府Makassar/Manado
Propinsi Maluku  首府Ambon
Propinsi Sunda Kecil  首府Singaraja
propinsiの下にはkaresidenan, kota, kabupatenが維持され、それぞれはresiden, 
walikota, bupatiを首長とした。

ところが連合軍はインドネシアを占領していた日本軍を武装解除して本国に送還するため、
AFNEI軍をインドネシアへ派遣して終戦処理を行わせたが、連合軍側の終戦処理の原
則は日本軍進攻前の状態への復帰であったことから、独立インドネシア共和国と衝突する
結果になる。

AFNEI軍が置かれた皮肉な立場とそれに関連して起こったさまざまなできごとは、前
作「スラバヤの戦闘」:http://indojoho.ciao.jp/koreg/hbatosur.html
をご参照ください。

戻って来たオランダ人は植民地時代を再現させようとし、既に独立を表明しているインド
ネシア共和国国民との間で武力衝突が頻発した。最終的にインドネシアの外交が国連を動
かして、オランダ王国とインドネシア共和国が1949年に円卓会議のテーブルに着いて
協議を行い、オランダ側が用意していた連邦国家方式の提案をインドネシア側が呑むこと
でインドネシア共和国というものが世界に公認される段階へと進んだ。

オランダ王国は20世紀に入ってから蘭領東インドの将来について、イギリスをまねたコ
モンウエルス体制への進展を欲しており、連邦国家方式はそのベースを踏まえたものであ
ったわけだ。最初から全領土をカバーするインドネシア共和国統一国家を求めていた民族
主義者たちはその構想を後退させざるを得なかったものの、たとえその領土の一部であれ、
インドネシア共和国という名前の政体が確立されることは共和国指導者たちにとって大き
な意味を持っていたにちがいあるまい。[ 続く ]