「日本が禁じたインドネシア独立(1)」(2020年01月13日)

1945年8月9日、インドネシア独立準備委員会のスカルノSoekarno議長、ハッタ
Mohammad Hatta副議長、ラジマン・ウェディオディニンラRadjiman Wedyodiningrat筆頭
メンバーの三人は南方軍総司令官寺内寿一大将に招かれてベトナムのダラトに向かった。
会見は8月10日に行われ、寺内大将は東京がインドネシアの独立を許可したことを明言
し、三人に対して「みなさん、おめでとう。」と述べた。

8月13日に一行はサイゴンを発ってシンガポールに寄り、14日にジャカルタのクマヨ
ラン飛行場に戻って来た。一方東京では、ポツダム宣言を受諾することがその日皇居で行
われた御前会議で決定していたのである。しかしジャワ島日本軍政監部はその情報をひた
隠しに隠し続けた。


スカルノとハッタはインドネシア民族代表者として日本軍政との協調路線を進め、スタン
・シャッリルSutan Sjahrilは抗日地下活動を行うことが三人の間で早くから合意されて
いた。言うまでもなく三人共にインドネシア独立を最終目標に掲げており、そのために必
要なものごとを日向と日陰の双方から手に入れるという分業がそこで行われていたのであ
る。親日反日などというレッテル思考とは無関係の、きわめてマキアベリズム的な原理が
その三人の同志の間に交わされていたということだ。

日本軍政はインドネシア人に対する情報操作を行い、国内で流している宣伝に満ちた報道
だけを聞くように強いた。連合国が国外で流しているラジオ報道を聞く者は敵のスパイで
あるから銃殺するという方針は、軍政開始以来出されていた。だが地下活動を行う者がそ
んな方針に素直に従うはずがない。

シャッリルは8月14日の午後、日本が降伏した情報を既に入手していた。かれはハッタ
の家を訪れて、ダラトから戻って来たハッタにさっそくその情報を呈示した。同時にシャ
ッリルの部下たち青年層も、日本降伏の情報を世の中に流し始めた。当然ながらの口コミ
だ。それを察知した憲兵隊も、情報を流している人間の逮捕に動き出した。


日本が降伏したら、オランダ植民地主義がまたインドネシアを支配するために戻って来る。
インドネシアはその前に独立を宣言しなければならない。今がその絶好のチャンスなのだ
ということは、すべての独立派青年層にとって言わずもがなの共通認識だった。

青年層リーダーたちはスカルノとハッタに今すぐ独立宣言を行えと迫った。だが日本軍政
との間で進めてきた独立のプロセスをいきなりすべてかなぐり捨てて、突然独立宣言だけ
を今すぐ行えるわけがない。スカルノとハッタはアンビバレンツな立場に立たされた。

独立準備調査会〜独立準備委員会というこれまで進めてきた準備の流れがあり、そこには
インドネシアの指導的名士が多数関わっている。同時に日本軍政もそこにからんでおり、
スカルノがいくら議長だとはいえ、独断で何かを行えるわけがない。だが青年層にとって
は、そんなしがらみなど知ったことではなかったのだ。そこに生じたコンフリクトが青年
層によるスカルノとハッタのレンガスデンクロックへの拉致というできごとに発展してい
く。

8月15日、日本では正午に天皇の玉音放送が流され、終戦の詔勅が読まれて国民は安堵
と無念の涙を流した。ジャワ軍政監部がいくら沈黙を決め込もうとも、ニッポン敗戦の情
報はインドネシア国内にひたひたと流れ込んできた。ジャカルタの雰囲気は大きく変化し
た。翌日の新聞に掲載された記事は、その様相を如実に描き出している。
[ 続く ]