「日本が禁じたインドネシア独立(2)」(2020年01月14日)

この記事は拙作「独立宣言前夜」 http://indojoho.ciao.jp/koreg/hroklamasi.html 
に掲載したものだが、ここに再掲しようと思う。記事本文に2605年8月15日と19
42年3月5日という飛び離れた日付が登場するが、これは「ニッポニサシ、つまり日本
化」(2019年10月21日)http://indojoho.ciao.jp/2019/1021_1.htm の記事に
見られる通り、西暦1942年4月29日の天長節の日から年号が西暦から皇暦に切り替
えられたことに関わっている。独立宣言文書に書かれた‘05(2605年)という表記
方法は2602年からインドネシアで始まっていたのであり、1945年8月17日に突
然思いついて使われたものではない。

***
2605年8月15日、ジャカルタ全市は午前10時から午後4時ごろまで、まったくの
停電になった。電車・ラジオ・病院の医療機器に至るまで、電気で動くものはすべて停止
した。

すべての住民が、得られない答えを求めて質問を胸に秘め、互いに顔を見かわし、その表
情をのぞき込むばかりだった。

まるで1942年3月5日のできごとを思い出させるかのように、最初は囁き声でニュー
スが口伝され、徐々に声は大きくなり、また伝達範囲も拡大して行った。最終的に、ジャ
カルタ全域ですべての者が知った。あるいはジャワ島で、更には全インドネシアでもそう
なったのではあるまいか?

「ニ ッ ポ ン   降 伏」

まるで、一瞬歴史が停止したかのようだった。市内の道路は閑散としている。ひとの見解
や思考が一斉にひっくり返った。ニッポンの敗北は既に予期され、確信されていたにもか
かわらず、それが実現したとき、その事態にしっくりなじめず、信じられない思いを抱く
ひとも少なくなかった。

こうなった今、独立インドネシアの案件はどうなるのか?インドネシアという国はどんな
運命をたどることになるのか?われわれはまるで品物のように、この世界の帝国からわれ
らの国に権利を持つ別の王国に譲渡されるようになるのだろうか?われわれは支配権者の
交代と共に、ある者の手から別の者の手に、まるで何もなかったかのように移されるだけ
なのだろうか?

そうならないためには、自己をわきまえた一国家一民族として、自分の運命を自らの手で
決め、自己を守る勇気と能力がわれわれになければならないが、われわれにそれがあるだ
ろうか?JPクーンからチャルダ・ファン・スタルケンボルフ・スタショウェルまでの3
50年間歩んで来た歴史の中にわれわれはまた戻って行くのだろうか?1942年3月9
日(全インドネシアが東インド植民地政庁から決別したのがその日)に一度閉ざされた歴
史を再開させようというのだろうか?・・・
***

スカルノは日本軍上層部の意向を知ろうと努めたが、これまでスカルノには一目置いてい
た軍政監部上層部がスカルノを避けた。スカルノは自分の姿勢を決めかねたまま、その日
を無駄に送ってしまった。

日本軍政は既に、インドネシアの独立準備を進めさせないようにする方針に傾いていたよ
うだ。連合国は降伏した日本に対し、インドネシアの治安維持と政治面での現状凍結を現
地在留日本軍に行わせるよう要求したからだ。インドネシアで、その現状凍結命令は8月
16日13時から発効した。

全東南アジア地域を日本軍進攻前の状態に復帰させることは、連合国がこの世界大戦を遂
行するための必須条件のひとつだった。侵略された既存の権利を復活させること、そして
かつての植民地から入手できる富をナチスドイツに蹂躙され疲弊してしまった本国経済の
復興計画に充当してなにがしかの用に供しようという皮算用も、誰しもが考えて当然のこ
とがらだった。その富の入手に障害が起こってはならないのである。植民地の独立などと
いう話はもっと先のことにしなければならない。[ 続く ]