「日本が禁じたインドネシア独立(終)」(2020年01月15日)

日本軍占領期間中に既に起こってしまったことはその対処をこれから考えるとして、少な
くとも1945年8月15日以降に東南アジアの各植民地で新たな政治的動きが起こって
はならないのだ。最初日本軍が持ってきたプロパガンダによって民族意識の高揚に火がつ
いた原住民に対し、かれらが勝手に独立の花火を打ち上げないように現地にいる日本軍に
原住民を抑圧させるのが一番手っ取り早い対策ではないか。


負け犬は勝ち犬の言うがままに動くしかない。だが昨日までの支配者が突然負け犬になり
下がったとき、被支配者の心理の奥底にあった懼れ意識は溶解する。支配者が支配者とし
て命令していた構図は変容してしまうのである。負け犬に命令されるとき、民衆が持って
いたかつての服従心に変化が起こるのは当たり前のことだったにちがいない。

敗戦後、インドネシアのあちこちで起こった日本人に対するインドネシア民衆の反抗と敵
対行動がそのような心理に推されたものであったのは、否定できるものではあるまい。こ
れは決して、独立闘争のための武器が欲しいことで起こった流血衝突だけを指しているの
ではない。

それを抑え込んで治安を維持しろと言うのは、襲撃される側に武力攻撃の正当性をあたか
も与えているように見えるのだが、旧植民地宗主国が政治面での敵となった原住民に向か
って戦争捕虜に武力攻撃をさせるという構図に見えなくもない。AFNEI軍が進駐して
きたあと、インドネシアのいくつかの場所でそれが実際に行われている。

結果論を言うなら、ジャワ島での日本軍政は日本人の身を守ることを優先して、治安維持
活動は形だけに終わらせ、旧植民地宗主国の思惑に沿う行動を積極的に示すようなことは
しなかった。日本軍政上層部はスカルノとハッタに独立宣言などしてはいけないと言うだ
けで、現場における実力を伴った阻止行動は何もしなかったように見える。

尻尾を振る負け犬にとっては、スカルノの身柄を拘留すること、あるいは8月17日朝ス
カルノ邸の表を武装占拠することなど、ご主人様を喜ばせるための手立てはいくつか考え
られたはずだが、この負け犬は尻尾を振ろうとしなかった。そんなことをすれば、日本人
の身を守ることの困難さが数層倍に膨れ上がっていったにちがいないのだから。


スカルノを動けなくすることで新たに降りかけられた責任を無難に全うしようと負け犬と
なった日本側が考えるだろうことは、独立派インドネシア人に容易に想像できるものであ
った。

スカルノが着実にプロセスを押さえながら行動しようとしているとき、青年層は自分たち
の前にどのようなリスクが浮かび上がって来たのかを察知した。日本軍がスカルノの身柄
を拘束してしまえば、独立宣言の希望の火は消える。それを防ぐには、独立派インドネシ
ア人がスカルノの身柄を押さえる以外にない。躊躇しているスカルノに決意を促すために
も、きっと効果があるだろう。

8月16日0時を回ってから、青年層とPETAジャカルタ大団が動きを開始した。かれ
らはスカルノとハッタを夜のうちにカラワンのレンガスデンクロックに隠したのである。
おかげでレンガスデンクロックがインドネシア初の独立解放区を名乗ることになった。

情勢の推移を見守っていたスカルノはついに意を決して、日本とは関係なく純粋に民族の
名において独立を宣言することを決意する。海軍武官府調査部長のアッマッ・スバルジョ
Ahmad Soebardjoがジャカルタから姿を消したスカルノとハッタを探してジャカルタに連
れ帰り、独立宣言の準備が開始された。

独立宣言文の起草が緊急事項になった。起草の場に日本軍がやってきてスカルノを捕らえ
るようなことになれば、事態は最悪になる。安全が保証できる場所はどこにあるだろうか。
スバルジョは海軍ジャカルタ在勤武官公邸がジャカルタでもっとも安全な場所であること
を知っていた。そして在勤武官前田精少将がそれを諒承するであろうことも。

こうして8月16日夜遅くに現在の中央ジャカルタ市イマムボンジョル通り1番地の邸宅
が時ならぬ賑わいを示すことになったのである。[ 完 ]