「感情で思考する社会(前)」(2020年01月16日)

ライター: コンパス紙記者、M・サイッ・ワッユディ
ソース: 2016年10月9日付けコンパス紙 "Saat Menilai dengan Emosi"

一滴の藍が鍋一杯のミルクを台無しにする。たったひとつの、ふさわしくない欠点や民衆
の価値観にそぐわないと見られた言行のために、他のすべての長所や善行が色あせてしま
うことは頻繁に起こる。世間から見上げられていた人物がいきなり卑しい人間として見下
されるのである。かれを取り巻いていた人の輪は散り散りになり、かれの存在は無視され、
それどころか人間としての威厳さえ地に落ちる。

そんなできごとは、世の中にモラル確立を推進させたり高貴な精神を広めていた少なくな
い著名人が体験している。簡単にかれらを尊敬したり賞賛していた世間は、それと同じ簡
単さでかれらへの敬意を投げ捨てるのである。

多数のメディアが伝えているように、ある著名なモチベータの身に起こったのが最新の例
だ。類似のことは、人気のあるイスラム説法者がポリガミを行ったときにも起こった。民
衆に精神指導を与えている他のひとびとにも、その種のできごとはしばしば起こっている。


インドネシア社会は感情社会である。思考は強く感情に支配される。かれらは論理を用い
たり知恵を使って情報を分析することを避ける傾向を持っている。ややこしくて頭を疲れ
させるプロセスは好まれないのだ。何か自分を喜ばせてくれる物をもらいたい。それがか
れらの精神傾向である。
「その結果、ものごとに対する評価検討は時間がかけられず、すぐに結論が出される。評
価検討は煮詰められたものにならず、不十分で効果が薄い。そんなものが決議や結論の根
拠に置かれている。」マナドのサムラトゥラギ大学脳と社会ビヘイビア研究センター長は
そう語った。感情が優勢になると感情のコントロールセンターである大脳辺縁系は論理思
考を統御する前頭前皮質を乗っ取ることになる。

そのような思考法で行われる評価は、正しいか間違っているかというポイントでなく、自
分自身にとって満足できるかどうかを基準にして行われる。ソスメドがもたらす巨大な情
報量を全身に浴びることで、ひとはそこに流れている情報の真偽を判別することにますま
す怠惰になっていく。情報の虚実を確認することは手にしているスマホで簡単に行えると
いうのに。

ガジャマダ大学で社会関係を研究している社会心理学者はインドネシアの民族性について
こう述べた。インドネシアの一般庶民もアジア諸国の大衆と同様で、人間関係の構築を好
む。人間関係が重要事項になるために意見の違いや意見衝突を嫌うようになる。他者との
関係においては常に和合と融和の雰囲気が保たれていることを優先する。

社会的著名人への敬愛も含むそのような人間関係の中で、相手に何か問題が発生すると、
相手との関係のきずなを解いて離れようとする。しかしほとんどの場合、その離別は表面
的なものでしかなく、決定的な分裂にならない。だから世間が社会的アイドルから離れて
行ったとしても、かれはいつかまたアイドルの座に復帰することができる。たとえ時間が
かかったり、あるいは以前ほどの熱烈な人気は回復されないとしても。

アイドルとして再び世間に受け入れてもらうための契機として、かれは前非を悔いてより
良くなった自己の姿を世間にアピールしなければならない。世間はその改心を受け入れて、
かれの過ちを赦すのである。

世間がかれを赦して犯した過ちを忘却するところに、簡単な評価検討と安易な結論という
民衆の性向が反映されている。評価検討は短期的な感情をベースにしており、即席型であ
り、忘却も早い。

< 学ばない >
感情的思考法は、2014年の大統領選挙が終わって2年も経過した今だに、ふたりの大
統領候補者のラバーとヘイターの対立を残したままの状況を生んでいる。それぞれのラバ
ーは必死になって、選挙時に支持した立候補者の昨今の行為が正しかろうが悪かろうがお
構いなしに、執拗に擁護を続けている。

過去に何度も繰り返されてきたにもかかわらず、民衆は発生したそれぞれの問題からあま
り教訓を引き出そうとしない。感情を使って思考する習慣は学校教育システムも手を貸し
ている。記憶することが優先されて、批判的思考の訓練がおざなりにされているのだ。
[ 続く ]