「独立宣言文起草博物館(後)」(2020年01月17日)

だれか別のひとがスカルノにペンを差し出した。スカルノはそれがだれだったのかを覚え
ていない。ペンは結局持ち主に返されないまま、円卓の上に残された。スカルノがその紙
に、ハッタとスバルジョが言う文言を書き記したのである。


早朝午前3時ごろ、三人の起草者は仕事を終えた。ブンカルノは草稿を隣室のひとびとに
読み聞かせ、隣室の天井を「ストゥジューSetuju」のどよめきが揺さぶると、サユティ・
ムリッSayoeti Melikが台所脇の階段下の小部屋ですぐ原稿のタイプアップにかかった。
タイプされた原稿は、広間の隅に置かれたピアノの上でスカルノとハッタがサインした。
時間は午前4時に差し掛かっていた。

その邸宅に集まった全員が夜明け前に自宅に帰り、その数時間後に再び集合した。今度集
まった場所はプガンサアン通り56番地のスカルノ邸の表であり、たくさんの市民も集ま
ってきてそこを埋め尽くした。午前10時にスカルノはよく通る声で既にサインがなされ
ている独立宣言文を読み上げた。それが新生インドネシア共和国の産声だった。


夜を徹して独立宣言文起草が行われたその邸宅の主が、タダシ・マエダ提督(前田精海軍
少将)だったのである。かれはジャワ島における大日本海軍の最高責任者であり、切迫し
た情勢の中で困惑していた独立派のひとびとに独立宣言文を起草するための安全な場所を
提供したのだった。この邸宅は1992年11月に独立宣言文起草博物館Museum Peru-
musan Naskah Proklamasiとして公開された。

1945年8月16日夜にマエダ提督がブンカルノとブンハッタを客人として迎えた玄関
東側の客間や、たくさんのひとびとが宣言文起草の完了を待ち続けたマエダ提督の会議室
の広間、サユティ・ムリッSayoeti MelikがBMディアDiahに付き添われて宣言文手書き
原稿をタイプアップした階段下の小部屋などは、あらゆる家具とその配置があの日のまま
留められている。ブンカルノとブンハッタがタイプされた宣言文原稿にサインしたときの
ピアノまでが、そのままの場所にそのままの姿で置かれている。

宣言文の起草が行われた部屋には、クリスタル照明が天井から吊り下げられ、その下に大
きい円卓があって、その周囲に高い背もたれの木製の椅子が三つ、等間隔で置かれている。
その部屋で当時の様子から変化した最大のものは、部屋の南縁に三人の起草者の胸像が置
かれていることだ。

博物館長は、可能な限り当日のありのままの姿を忠実に再現するよう努めているものの、
あの日以来、館の主が何回も交代したことが困難を招いていると説明している。1920
年に建てられたこの建物は終戦処理に進駐してきたイギリス軍の司令部になり、1961
〜1981年には駐インドネシア英国大使公邸としてイギリス政府が借り上げている。博
物館にされる前はそこに国立図書館の事務所が置かれていた。[ 完 ]