「東インド植民地空軍小史(2)」(2020年02月11日)

オランダ王国がニューヨークに置いた調達コミッションが東インド植民地のために米国宛
に発注した軍用機の明細に関する資料がある。機種別になっているため転記すると長大な
ものになるので、端折って書くとするが、次のような台所裏を見ることができそうだ。

1939年 
戦闘機 発注20 拒否‐ 不着‐

1940年 
爆撃機・輸送機 発注544 拒否254 不着182
戦闘機 発注189 拒否128 不着25
合計 発注733 拒否382 不着207

1941年
爆撃機・輸送機 発注274 拒否‐ 不着274
戦闘機 発注264 拒否100 不着140
合計 発注538 拒否100 不着414 

総計 発注1,292 拒否482 不着621
これに従うなら、東インド空軍が受け取った米国製軍用機の機数はその三年間でたったの
189機だったことになる。

オランダ植民地政庁は東インドに空軍を設けることを決め、オランダ王国空軍とは完全に
別体系の航空戦力の養成を1915年に開始した。オランダ王国東インド植民地軍内に設
けられたテストフライト局Proefvliegafdelingが当初その任に当たり、1921年に航空
局Luchtvaartafdelingに昇格したあと、1939年3月30日に空軍Militaire Luchtvaart
として名実ともに東インド軍の一部門となった。

1936年にオランダ王国のコレンH.Colijn首相は議会で、東インドの空軍体制はあまり
にも貧弱であり、わずか30機であの広大な領土をカバーできるわけがないことを切々と
訴えた。軍備増強のための予算が承認されて、さっそく米国に対しグレンマーチンB−1
0爆撃機117機が発注され、東インド空軍は威容を整えて発足したのだが、1942年
には使える機体が57機しかなくなっており、いざ日本軍の蘭印進攻が始まると、既に旧
式化してしまったそれらの軍用機はバタバタと撃ち落されてしまった。


空軍が設けられたことで、空軍基地があちこちに作られる必然性が生じた。1914年に
バタヴィアとバンドンからほぼ等距離のカリジャティKalijatiに設けられた飛行場やもう
少し後に建設されたバタヴィア南東部のチリリタンCililitan飛行場だけでは足りなくな
るのが当たり前であり、スラバヤのモロクルンバガンMoro Krembangan基地は1926年
に完成している。

更に戦雲が色濃く漂うようになってきた1938年ごろから、ヨグヤカルタのマグウォ
Maguwo飛行場やマグタンのマオスパティMaospati飛行場、マランのブギスBugis飛行場、
ソロのパナサンPanasan飛行場などが続々と建設されていった。

東インド空軍が陸軍に倣って兵員確保と軍容興隆を目的に、原住民育成のために設けた義
勇飛行兵団Vrijwillige Vliegers Corpsに参加したプリブミもいた。陸軍のように五体満
足なら誰でもが参加できるようなものと異なって航空機を扱うための教養と素養がなしに
は済まないものであり、おまけにかれらを教育するための教官から機材に至る層が東イン
ド空軍の中にたいへん薄かったのだから、受け入れ側も生徒を厳選したはずだ。そんな狭
き門に入ったプリブミたちは明らかに選民だったと言えるだろう。[ 続く ]