「恐怖の破滅性向(2)」(2020年02月11日)

人生道場で鍛えられる人間は強くなり、過保護に取り囲まれた人間は無能に向かって退化
して行く。詐欺と一般に呼ばれているこの舞台をわたしはきわめて興味深く眺めている。
そこにはインドネシア人が持っている人間観が色濃くにじみ出ているからだ。

一時はジャカルタの住宅地内を、空き瓶買い取り屋が横行していたこともある。洋酒や香
水の空き瓶がかれらの本命であり、他にも市場で高価な商品が入っていた空き瓶があれば
拾い物という雰囲気だった。

その種のビジネスが国家規模で広がった時代には、心ある消費者の多くはそんな商法に利
用されかねない空き瓶をひとつひとつ割っていたようだ。そこだけ見るなら、背景を知ら
ない人間の目には、インドネシア人の精神に疑いを抱きそうな光景ではある。

ジャウィルの性向が瞬間湯沸かし器型であることは、物売り仲間たちにはよく知られてい
た。おまけに、チンピラやくざたちのたかりを排除するために、路上物売りたちの中に鉈
や刃物を隠し持つのは珍しくない行為であり、ジャウィルもそのひとりだったことを物売
り仲間たちは知っていた。その歩道橋でショバを張っている物売りは15人いて、ジャウ
ィルはそこでいつも刃物を持ち歩く者のひとりだったそうだ。


感情が行動決定の基盤に置かれている人間は、激怒すると怒りの対象者に向けて強い破壊
衝動を抱き、そのために喧嘩立ち回りは生命のやりとりになる傾向を強める。生命のやり
とりという破滅的な状況に至ることを抑制するのが理性であり、理性の勝った人間同士の
喧嘩立ち回りはルールを決めて破滅的終末的な状況を避ける方向へと向かうが、理性ゼロ
型の感情人間は肉体上・生命上の決着がつくまで喧嘩立ち回りをやめることがない。

もちろん生命というものに対する軽重感覚によって差が出現するのは当然だが、異様な重
量感を生命に与えている現代文明が示す価値観の枠内に限定してわたしはこれを論じてい
る。

インドネシア人の教育レベルの低い階層を相手にして絶対に喧嘩立ち回りを演じてはなら
ない、とわたしは昔から主張してきた。それは理性を育てず、あるいは理性を使って自分
の行動を統御することに慣れない人間たちの激怒が、きわめて危険なものであるためだ。

いくら柔道・空手・剣道を極めて格闘技に自信を抱いていても、そんなことで終わらない
のが社会生活なのである。殺人者や重度暴行障害犯になったら、自由な社会生活は営めな
い。

インドネシアにあるその種の危険の実態は「血に飢えた激情」
http://indojoho.ciao.jp/koreg/libkijo.html
がご参照いただけると思います。[ 続く ]