「東インド植民地空軍小史(終)」(2020年02月13日)

1942年1月1日に東インド植民地軍は米英豪軍と共にABDA連合軍に組み込まれ、
同年1月11日から開始されたタラカン島とマナド攻略戦を皮切りにする日本軍の東イン
ド進攻の矢面に立つことになる。

1941年12月8日にアジア太平洋で戦争を開始した日本は、12月14日に香港を陥
落させ、12月19日にマラヤ半島のペナン島に達してジョージタウンを占領し、194
2年1月6日にはブルネイとラブアンを攻略し、1月11日から蘭領東インドへの侵入を
開始する。タラカンは1月12日、バリッパパンは24日、シンガポールは2月15日、
翌日にはパレンバン、20日にはマカッサルとティモール島という疾風の勢いで東南アジ
アを席巻し、ジャワ島へと迫って来たのである。

ジャワ島内にいた非プリブミは大混乱に陥った。女性・子供・老人から高貴なひとびとや
軍人に至るまでが、安全を求めるために家族を伴ってオーストラリアへ逃げようとした。

東インド空軍義勇飛行兵部隊の一員で、マグウォ空軍基地で航空兵教育訓練を受けていた
元インドネシア国軍スヨノ空軍中将もそのひとりだった。当時まだ19歳だったかれは、
東インド政庁が用意したオランダ国立汽船会社KPMのボワセファンBoissevain号でタン
ジュンプリオッ港からオーストラリアへ移るよう命じられた。インド洋側のチラチャップ
Tjilatjap港にも別の船が用意された。

オーストラリアだけでなく、セイロン島のコロンボに向かう船もあった。しかしそのころ、
日本軍潜水艦隊はインド洋の海中を我が物顔で作戦行動を行っており、東インドからの避
難民を乗せた船は少なからずその餌食にされたのである。

チラチャップ港からオーストラリアに向かった船は3月1日に出港した最期の船を含めて
11隻が海の藻屑と消えたとスヨノ氏は語っている。義勇飛行兵部隊で練習機に使われて
いた複葉のデハビランド製タイガーモス機でオーストラリアまで飛ぼうとした関係者もい
たそうだ。中にはかろうじてオーストラリア大陸にたどり着いた者もあったようだが、他
のひとびとの運命がどうなったのかを知る者はいない。

東インドから避難してきたひとびとは、西オーストラリア州北西にあるブルームBroomeの
町に収容された。2月の後半だけで8千人ものひとびとがこの町にやってきた。連合国の
軍人と東インド政庁高官の家族たちがそのメインを占めていたそうだ。

チラチャップが日本軍に占領されるまでチラチャップとブルームの間に連絡路が作られて
いて、ジャワ島連合軍への補給にも使われていたため、日本側は3月3日に24機の航空
部隊によるブルーム空襲を実施した。ブルームの飛行場にあった軍用機はすべて破壊され、
また港にあった飛行艇や艦艇も攻撃を受けた。


オーストラリアに逃れた東インド空軍は、1942年4月からオーストラリア空軍の支援
で飛行小隊を編成した。第18飛行小隊は爆撃隊、第119飛行小隊も爆撃隊だったが4
3年12月に解散した。

第120飛行小隊は戦闘機隊だった。この飛行小隊は対日戦が終わった後もインドネシア
共和国軍との戦闘を続け、オランダのインドネシア主権承認で東インド植民地軍が解体さ
れた結果、インドネシアの地から姿を消した。[ 完 ]