「恐怖の破滅性向(4)」(2020年02月13日)

オルバ期には、社会に蓄えられた怒りのレベルを観察し、ときどき暴動が発生するように
して、いざ発生すればある期間は燃え上がるのにまかせ、潮時と見るや軍と治安機関が暴
動を瞬く間に抑え込んでいく現象が何度も目にされた。それが「ガス抜き」と呼ばれてい
た暴動への対応方法であり、インドネシア人ならではの眼力と社会操縦様式がそこに示さ
れていることに若輩のわたしは驚かされたものだ。

言うまでもなく、穏健で従順な、羊のような人種は一見して暴力とは無縁のように見える。
そのような民衆は暴虐な支配者にとって、支配しやすい民であるのは間違いがない。そん
な民でさえ、公正さに欠ける差別や虐待によって怒りを蓄え、折に触れてガス爆発を起こ
すのだという解釈は、当たっている面がないとは言えないだろう。


社会はその構成員が持っている個性を必ず反映する。しかし社会構成員たる人間は千差万
別・十人十色なのだ。人類の歴史の中でどこの社会にも存在していた男優女劣慣習の中に
ある「強い男は優れた人間である」という価値観がインドネシア社会で例外だったはずが
ない。

わたしが成長した時代の日本にもそれはあったし、今でも一部に存在しているようだが、
その命題が少なくとも物理的な強さのみに関わる真理ではないという反論が高まって、暴
力闘争の場における強さを規準にして価値ある男かどうかを判断するのはやめる方向に傾
いているように見える。かと言って、混雑する人ごみの中でわたしの身を護ってくれる強
い男の腕に憧れる女心が消える気配もなさそうだ。

ジャカルタでの暮らしの中でその価値観をインドネシア社会の中に感じたことは数えきれ
ないほどあったし、バリでの暮らしではその価値観が一部、特に低階層のバリ人の間にた
いへん強く根を張っているように感じたことも再三だった。

共同体社会の中で現代文明化が遅れているところは、(暴)力の強い男の価値観がたっぷり
と残されているのは理屈の上からも明白だ。その価値観を信奉する人間にとっては、物理
的な(誰が見ても分かる)勝負を決することを目的にして、暴力を振るい合って闘争する
場が自己の優秀さを示す舞台になるのである。だからかれらは自己証明の場を求めて、積
極的に暴力を振るう傾向を持つようになる。これは強いオスがメスを引き寄せる本源的な
ケダモノの性向と呼ぶべきものなのだろうか?

そのような単純化がむつかしいのは、そこに社会生活という文明化された実体の投影が起
こっているためである。ケダモノの世界に価値観は存在しなかったのではなかったろうか?
だとすれば、それは文明化の中で起こった価値観が本源的な面と呼応して発現しているも
のと見ることができよう。そうであるからこそ、ケダモノ性を滅却せよと叫んでいる現代
文明は、そこに生じた男優女劣並びにその枝葉に出現した(暴)力の強い男というような文
明的価値観を否定せざるをえないのである。


あるときクタの町中で、道路沿いのビルに入るために一方通行の道をウインカーを出して
右に寄り、いざ中に入ろうとハンドルを回しかけたとき、突然右側を早いスピードで一台
のバイクが突っ切った。

腹を立てたわたしは、クラクションを鳴らして抗議した。するとそのバイク野郎はちょっ
と離れた前方で停止し、身体をひねってわたしの方を向くと、指を折ってカムカムのしぐ
さをし、決闘に誘ったのである。常日頃からわが身を優秀なる強者に仕立て上げる舞台を
探し求めている類の人間がその男であるということは、そこで起こった成り行きを見るだ
けでも明白だろう。[ 続く ]