「教科書に見る日本軍政期(2)」(2020年02月17日)

その三区はそれぞれが軍政監(軍事政府最高官)の肩書を持つ参謀長に率いられ、その役
所は軍政監部と呼ばれた。暫定占領軍行政制度の構築は、日本側に職員が不足していたこ
とから大きい困難に直面した。日本側は仕方なくインドネシア人を行政職員に登用したた
め、暫定行政府の上級職に就くインドネシア人が多数に上った。しかし1942年8月に
日本軍暫定行政府は終末を迎えた。日本から文民行政員がインドネシアに派遣されてきた
のだ。上級職に就いたインドネシア人は次々に交代させられていった。

1943年半ばになると、太平洋戦争における日本の立場は押される側に陥ったため、日
本軍政はふたたび行政機構に参加する機会をインドネシア人に与えた。それに関連して1
943年9月5日に日本軍政は州参議会Badan Pertimbangan Keresidenanと市参議会Badan 
Pertimbangan Kotapraja Istimewaを設けた。行政機構の上級職に多くのインドネシア人が
就いた。その中には、宗務部長Kantor Urusan Agamaにフセイン・ジャヤディニンラ教授、
ジャカルタ州長官にスタルジョ・カルトハディクスモ、ボジョヌゴロ州長官にR.M.T.
A.スリアたちがおり、また軍政監部に対する相談役として7人のインドネシア人が登用
された。スカルノ工学士(総務部)、スワンディ法学士とアブドゥラシッ博士(内政部)、
スポモ法学士博士教授(法務部)、モッタル・ビン・プラブ・マンクヌガラ(交通部)、
ムハマッ・ヤミン法学士(宣伝部)、プラウォト・スモディロヨ(産業部)たちがそれだ。
こうして日本軍政は行政機構の面においてインドネシアにたいへん大きな影響をもたらし
た。オランダ植民地時代に行政機構内の要職はインドネシア人に与えられたことがなかっ
たのだ。

4.軍事分野の影響
1943年に入って、太平洋戦争の状況に変化が起こった。連合軍は日本軍の進攻を停止
させるのに成功し、日本は防御態勢に転じた。人的資源が底をついたため、日本は各占領
地の住民から支援を得る必要性を悟る。日本軍政は連合国との戦争を支援させるためにイ
ンドネシアの青年男女を動員することを考慮し始め、かれらの軍事教練の場として防衛集
団を組織した。それらの諸組織に参加した青年たちは軍事面での教育訓練を受けた人材に
育った。後日、インドネシアの独立を勝ち取り、勝ち取った独立を維持するための戦闘に、
その軍事教練は大いに役立った。

a. 青年団 Barisan Pemuda
青年団は1943年3月9日に編成された。構成員は14歳から22歳までの若者たちで、
将来自分の祖国を自らの力で防衛できるように軍事教練が与えられた。真の目的は太平洋
戦争において連合軍と対決する日本軍の支援部隊としてインドネシア青年を育成すること
だったのだが。

b. 警防団 Barisan Pembantu Polisi
1943年4月29日に発足した警防団は23歳から25歳までの青年で構成された。ス
マトラでは防護団Bogodanカリマンタンではボルネオ興南報国団Borneo Konen Hokukudanと
称した。かれらは日本警察の任務を手伝うための教育を施された。警防団組織は日本警察
の指揮下に置かれ、民族主義者の影響を受けないよう、厳しく監督された。

c. 兵補 Pembantu Prajurit Jepang
1943年4月に兵補という組織が生まれた。これはプリブミをメンバーとする軍事組織
である。メンバーは完ぺきな軍事訓練を与えられた。メンバーとして合格すれば即座に日
本軍組織の中に入り、マラヤ・ビルマ・ソロモン諸島などの戦場にいつでも送り出される
ことになった。
[ 続く ]