「教科書に見る日本軍政期(3)」(2020年02月18日)

d. 婦人会 Barisan Wanita
婦人会は1943年8月に発足し、15歳以上の女性で構成された。戦時下の日本軍を支
援することがその機能だった。

e. ジャワ奉公会 Perhimpunan Kebaktian Rakyat Jawa
この団体はプートラPusat Tenaga Rakyatが閉鎖された後、1944年3月1日に誕生し
た。ジャワ奉公会は軍政高官の直接監督下に置かれた政府の公式組織であり、連合軍の攻
撃に対抗するために総力の動員を目的とする運動だった。主要任務は戦争遂行のための資
金・食糧・故鉄を集めることにあった。この組織は民衆に不安と困窮と苦痛をもたらした
ために、民衆の支持を得ることができなかった。

ジャワ奉公会の活動は次のようなことがらをカバーした。
(1) 日本に全身全霊で奉仕するために、すべてのことがらを形に現わして誠実に行う。
(2) 同一民族の兄弟愛精神にもとづき、民衆を奉仕活動に導く。
(3) 祖国の防衛を強化する。
(4) 戦時下の生活を強固にする。

f. 推進隊 Barisan Pelopor
1944年9月25日にジャワ奉公会の下部組織として推進隊が作られた。連合軍の攻撃
に対する全力防衛のために、特に青年層を中心にして民衆の警戒態勢を向上させることを
目的にしていた。推進隊がジャワ奉公会の中核戦力になったことから、そのリーダーシッ
プはブンカルノ、R.P.スロソ、オットー・イスカンダルディナタ、ブンタラン・マル
トアッモジョたち活動家に委ねられた。この組織も基礎的軍事訓練を受けている。

g. 郷土防衛義勇軍 Pembela Tanah Air (PETA)
ペタの発足は1943年10月3日で、その任務は連合軍の進攻から郷土を全力を挙げて
防衛することにあった。ペタの創設は1943年9月7日のガトッ・マンクプラジャから
日本軍最高指揮官クマキチ・ハラダ中将への命令による。ペタ構成員になるため、青年た
ちはタングランで特別の軍事教育を受けた。訓練は高度な規律の要求された厳しいものだ
った。ペタの指揮官養成は、ボゴールの将校養成教育でなされた。このペタからスディル
マン将軍、ガトッ・スブロト将軍、スプリヤディ、アッマッディ・ヤニ将軍、スハルト将
軍(インドネシア共和国大統領)などの著名な軍人が輩出した。教官はヤナガワ大尉だっ
た。

5.文化面
日本時代に教育文化面への関心が向けられ、インドネシア語が使われるようになった。イ
ンドネシア語が主要教科とされ、また日本語の学習が義務付けられた。インドネシア語の
普及に伴って国内諸種族間のコミュニケーションが広がり、独立への意志を高めることに
貢献した。1943年4月1日に啓民文化指導所がオープンした。

6.政治生活における影響
日本時代、1942年3月8日付け大日本軍司令官布告第二号に定められたインドネシア
人の結社・集会禁止項目に従って、蘭領東インド時代に作られた民族組織はすべて解散さ
せられ、禁止された。この禁止事項に対するあらゆる違反行為は日本の秘密警察機構であ
る憲兵隊により、たいへん残酷な拷問で処罰された。
[ 続く ]