「教科書に見る日本軍政期(4)」(2020年02月19日)

解散させられた民族組織のリーダーたちは軍政側からの絶えざる疑惑と監視に包まれてい
た。日本がインドネシアの政治状況を知り尽くしていたことは、日本がインドネシアを占
領しようとしたとき、インドネシアの民族指導者に関する情報を含めて、オランダ時代の
政治状況に関するさまざまな書類を備えていた点に見ることができる。

民族運動組織はすべて解散させられたが、イスラム層は反西洋志向だったために異なる扱
いを受けた。1943年11月まで、オランダ時代に作られたインドネシアアッライスラ
ム評議会Majelis Islam A'la Indonesia (MIAI)の存続が許された。ところがMIAIが
著しい発展を示すと、中心的活動家に厳しい監視の目が注がれるようになり、結局MIA
Iは解散させられ、それに代わってインドネシアムスリム協議会Majelis Syuro Muslimin 
Indonesia (Masyumi)が設立された。日本は集会と結社の禁止を厳格に実践したが、民族
運動活動家たちはインドネシア民衆への保護とより良い未来に向けての改善に努め続け、
インドネシア独立のための闘争を進めた。その闘争の中でかれらはたいへん用心深く振舞
った。自分たちに反対する者はだれであれ、日本側は容赦なく殺したからだ。

そんな状況のため、運動の中心人物たちは過激な、あるいは非協力的な姿勢を取らず、協
力的に振舞った。協力的な姿勢のゆえに日本はかれらを協力関係の中に置き、日本が作っ
た諸組織の要職に就かせた。日本軍政が出した政策をかれらは民族運動や国防組織編制の
ために利用することもした。1944年末、日本軍は太平洋戦争において守勢に立った。
戦略的要衝であるサイパン島は米軍に奪われ、日本軍は窮地に陥った。その結果トージョ
ー首相とコイソ首相の交代が行われ、戦況の悪化に加えて各地で民衆の抵抗が活発化した
ことから、1944年9月9日にコイソ首相は日本の議会でインドネシアに対する独立承
認の用意があることを表明した。

日本の占領は終結が目前になった。連合軍は日本の中心都市ヒロシマとナガサキに8月6
日と9日に爆弾を投下した。1945年8月14日、インドネシアの指導者スカルノ、モ
ッ・ハッタ、ドクトル・ラジマンの三人はベトナムのダラトで日本軍上層部と会見し、イ
ンドネシアの独立を協議してから戻って来た。帰路シンガポールに立ち寄り、その翌日に
三人はインドネシアに帰着した。情報通信がまだお粗末で、おまけに日本側が禁止したこ
とから、インドネシアの民衆は日本政府が表明したインドネシア独立の約束を知らず、民
衆指導者の多くもまたそれを知らなかった。最終的にたいへんなプロセスを経て日本は1
945年8月15日に連合国に降伏した。日本が連合国に降伏したことはインドネシアの
情勢に変化をもたらす歴史的な事件であった。

a. 独立準備調査会 Badan Penyelidik Usaha-Usaha Persiapan Kemerdekaan Indonesia 
(BPUPKI)
1944年、太平洋戦争における各地の戦場で日本軍は防戦一途だった。各戦場で日本は
敗れた。おまけにインドネシアで民衆の反乱が起こったことから、日本の立場は逆風にさ
らされた。日本の防衛力は弱まる一方で、敗戦の影がますますその濃さを増していた。し
かし日本側はインドネシア民衆の気持ちを引き付けようとして、独立の約束を掲げた。
[ 続く ]