「教科書に見る日本軍政期(終)」(2020年02月21日)

第一回会期が終わった後、第二回は7月に開催されることになった。次の会期が始まるま
での間、9人の調査会メンバーは小委員会を編成して憲法前文の草案を作成する作業に取
り組んだ。その9人とはスカルノ工学士(委員長)、モッ・ハッタ学士、A.A.マラミ
ス法学士、アビクスノ・チョクロストソ、アブドゥルカハル・ムザキル、ハジ・アグッ・
サリム、アッマッ・スバルジョ法学士、K.H.A.ワヒッ・ハシム、モッ・ヤミン法学
士で、この9人委員会はハードワークの末に独立インドネシアの国家原理と目的を盛り込
んだ憲法前文の草案を作り上げ、6月22日に完成させた。この草案はモッ・ヤミン法学
士が名付けたジャカルタ憲章あるいはジャカルタチャーターという名前でその後呼ばれて
いる。

ジャカルタ憲章第4パラグラフには、独立インドネシア国家五原則が盛り込まれている。
1.信徒にとってイスラム律法を実践する義務を伴う有神性
2.公正で文明的なヒューマニズム
3.統一インドネシア
4.代表合議制にもとづく賢明な叡智に導かれた民衆主義
5.全インドネシア国民にとっての社会的公正

ジャカルタ憲章はパンチャシラの表現を含むいくつかの変更を経て1945年憲法前文に
なった。

2)第二会期(1945年7月10日〜7月17日)
この第二会期における審議では憲法と前文の草案が検討された。スカルノ工学士が統率し
た憲法作成委員会はジャカルタ憲章を憲法前文とすることを了承した。憲法作成委員会は
憲法条文の内容審議のために、フセイン博士教授を委員長とする小委員会を設けた。19
45年7月14日、スカルノ工学士は憲法作成委員会の検討結果を委員会に報告した。す
なわち、
(a) 独立インドネシア表明
(b) 憲法前文
(c) 憲法条文

最終的に独立準備調査会は憲法作成委員会の作業結果を全会一致で承認した。独立準備調
査会はその任務を完遂したことから、1945年8月7日に解散した。

b. 独立準備委員会 Panitia Persiapan Kemerdekaan Indonesia (PPKI)
独立準備調査会が解散した後、ジャワ島日本軍政はテラウチ将軍の命によって独立準備委
員会を編成することになった。ベトナムのサイゴンに所在する東南アジア日本軍最高指揮
官であるテラウチ将軍が委員会メンバーを自ら選抜することになっていた。独立準備委員
会の仕上げを行うため、1945年8月9日にテラウチ将軍はスカルノ工学士、モッ・ハ
ッタ学士、ドクトル・ラジマン・ウェディヨニンラをベトナムのダラトに招いた。そこで
の会見でスカルノ工学士が独立準備委員会委員長、モッ・ハッタ学士が副委員長に任命さ
れた。日本はインドネシアが1945年8月24日に独立するのを公式承認することが約
束された。独立インドネシアは旧蘭領東インドをその領土にすることになっていた。

1945年8月15日、三人がダラトからインドネシアに帰国すると、すぐに独立準備委
員会の編成が行われた。ジャワ代表者12名、スマトラ代表者2名、スラウェシ代表者2
名、ヌサトゥンガラ代表者1名、華人層代表者2名の合計21名がメンバーで、アッマッ
・スバルジョ法学士が顧問になった。日本が連合国に降伏すると、日本側への通知なしに
独立準備委員会は国家機関となり、メンバーに6人が追加された。こうして独立準備委員
会は日本が用意したものでなく、インドネシア民族の所有物になったのである。独立準備
委員会はインドネシア全土の代表者を集めた機関となり、国家指導者にとってインドネシ
ア独立を実現させるための活動の母体になった。日本政府はインドネシアの民族運動にお
ける諸活動を拘束するのに成功したものの、インドネシア民衆の民族意識を拘束すること
には成功しなかったのである。[ 完 ]