「イスラム国家にならないイスラム的民族国家(前)」(2020年03月10日)

ライター: プサントレン「トゥブイレン」主宰者、サラフディン・ワヒッ
ソース: 2016年7月13日付けコンパス紙 "Merawat Harmoni Indonesia dan Islam"

ここ二か月間に出されたいくつかの表明あるいは論評は、確認や説明あるいは多少の修正
を盛り込んだフォローアップを必要としている。

その第一は、中東のいくつかの国で起こっている内戦はイスラミズムとナショナリズムの
接点が見いだせないためであるという国内外著名人の論評。二つ目は、キヤイハジ・ハシ
ム・ムサディ師の書いた「われわれは最初からイスラムベースの国家を望んでいなかった」
という文章。三つ目に、オンラインメディアが示しているルッマン・ハキム・サイフディ
ン宗教相の「われわれはイスラム教を信仰するインドネシア民族であり、インドネシアと
いう土地に住むイスラム教徒ということではない」という表明。

インドネシアの独立運動は、20世紀の20年代に入って胎動を始めた。そのとき活動家
たちの間に存在した三つのイズムはナショナリズム・イスラミズム・コミュニズムだった。
1926年にこのヌサンタラの地で支配者に対する反乱の歴史をコミュニストが開始した。
その結果、コミュニストグループは東インド植民地政庁に厳しくマークされ、多くの活動
家が国外に逃亡した。


独立準備調査会で憲法草案が作られ、独立準備委員会でそれが確定されるとともに独立新
政府の陣容が定められた一連の過程に、コミュニストは参画しなかった。ナショナリスト
グループとイスラムグループは厳しく対立した。その果てに何が起こったかを、われわれ
は熟知している。1945年8月18日にパンチャシラを国家基盤に置く1945年憲法
が公布された。パンチャシラの筆頭項目は「一神教型の有神性」になっている。

国家基盤をイスラムに替えようとする努力は1956〜1959年の憲法改正の中で、イ
スラム政党によって継続された。そのことは民族、中でも若い世代の記憶にあまり残され
ていない。改憲評議会メンバーの56.4%がパンチャシラを推し、43.6%がイスラ
ムを選ぶという投票結果が史的事実として残った。どちらもが、三分の二という確定条件
を下回ったのである。

審議が暗礁に乗り上げたため、1959年7月5日にブンカルノが大統領布告を出して、
そのとき施行されていた1950年暫定憲法を廃し、1945年憲法に復帰することを決
めた。

それから25年が経過して、イスラム界はやっとパンチャシラが国家基盤であることを公
式に受け入れた。1984年12月に開かれたナフダトゥルウラマ総会で「イスラムとパ
ンチャシラの関係」文書に基づき、パンチャシラが公式に国是として承認されたのである。
それをきっかけに他のイスラム団体が続々とそれに倣った。例外はほんの一握りだった。

< 拒絶はなぜか? >
1945年にイスラム界はパンチャシラを拒否し、1984年になってやっと受け入れた。
それはどうしてか?1920年代末からブンカルノはイスラムについての考えをさまざま
に表明した。「エンデからのイスラム書簡」を旧世代は覚えているはずだ。バンドンのイ
スラムユニオンリーダーであるTAハッサンとブンカルノの文通書簡集だ。それを読めば、
ブンカルノがイスラムに批判的な見解を持っていたことがわかる。ブンカルノは書簡の中
で、布教を妨げたり反イスラム的であることを理由にイスラム界が嫌っているケマル・ア
タテュルクをしばしば称賛している。イスラムの火をつかもうとせず、イスラムの灰を後
生大事にしている点でインドネシアのウラマはトルコのウラマと差異がない、とブンカル
ノは考えていた。

だからインドネシアのイスラム界上層部はブンカルノがインドネシアをトルコのような世
俗国家にしたいのだと思っていたのである。その帰結としてブンカルノが提唱するパンチ
ャシラも反宗教(イスラム)的世俗指向のものと見なしていた。ましてや、1945年6
月1日にブンカルノが紹介発表したパンチャシラでは、「神性」が最後の5番目に置かれ
ていたのだから。[ 続く ]