「宗教に支配されない国インドネシア(1)」(2020年03月16日) ライター: シャリフ・ヒダヤトゥラ国立イスラム教大学教授、コマルディン・ヒダヤッ ソース: 2015年7月27日付けコンパス紙 "Fitrah Manusia Bertuhan" とある宗教間対話フォーラムで、講演を始める前にわたしはふたつの質問を発した。答え は紙に書いてもらい、それを集めた。 第一の質問:宇宙に存在する地球・太陽・他の惑星の運行はひとつの神の統御下にあるの か、それとも多数の神か?第二の質問:われわれが崇拝する神は同一か、異なっているか? 回答紙が集められ、第一の質問への回答は一様であることがわかった。この宇宙はひとつ の神が創造し、統御しているのだ。飛行機をシンプルな例にとるなら、操縦者がたくさん いればそのうちにぶつかるだろうというわけだ。つまりみんなは、この宇宙を取り仕切り、 統御しているもっとも支配的な神はただひとつであるというきわめて論理的で理性が容易 に受け入れることのできることがらを確信しているのである。第二の質問の回答はたいへ ん興味深いものだった。およそ80人のフォーラム参加者はまっぷたつに割れ、勢力も拮 抗していた。かれらは異なる神を崇拝しているのである。 そんな結果から、わたしは更に新たな質問を発した。この部屋にはさまざまな宗教信徒が いて、奉じる神が別々のものであることを確信している。ならば、神の目から見て、われ われの住んでいる地球やわれわれ全員を照らしてくれる太陽に対してもっとも権利を有し ていると主張できる住人は、どの信徒なのか?たとえば太陽を電力会社PLNにたとえよ う。PLNが消費者から電力料金を徴収するように、もしも太陽の光熱を享受する者から の支払いを徴収するとなったとき、神はどの信徒にその徴収権を与えようとするだろうか という質問だ。その質問をそのフォーラムで話題にする気はわたしになく、わたしは単に 問いかけを行うだけのつもりだった。 < 永遠の論争 > 神を探し求め、神を信仰することは、何世紀にもわたって続けられてきた。神を必要とし、 神に向かわせる衝動がなぜ人間の内面に存在するのかを説明する理論は山ほどある。答え の得られない生の謎に直面した人間の内面的弱さが作り出した虚偽であり幻影であるとい う理論を唱える哲学者や科学者も多い。しかしそれらの全体をよくよく吟味してみるなら、 神への確信がはるかに強いことが分かる。それに関しては、神の啓示と預言者の要因がた いへん強く作用している。 科学者の間で論争が起きるとき、議論の対象が客観体験の領域にあるために解決は困難で ない。証明は演繹的肯定的になされる。そこでは経験主義的証明がベースに置かれる。と ころが神への確信については、その対象が抽象的非物質的であることから、論争に使われ るのは論理思考と聖典の権威、そして宗教体験になる。宗教体験というものも、科学的ア プローチを使うならその証明は困難だ。 たとえば、ヒラの洞窟で瞑想中に天使ジブリルに会ったというムハンマッの証言はどうだ ろう?そこにあるのは、ムハンマッが嘘をついたことのない人間であるという個人的な強 みと、信じるか否かという議論を構築するために友人たちに呈示された情報の内容だけだ。 もしその証拠を見せろと言ってひとびとが天使ジブリルに会うためにムハンマッをヒラの 洞窟に連れて行ったところで、同じことは二度と起こらないだろう。それはきわめてプラ イベートな宗教体験なのである。イスラミラジ体験も同じだ。しかしムハンマッと友人た ちがメッカからマディナへヒジュラしたできごとはそれらと違い、歴史的事実であってそ れを目撃した証人もたくさんいる。[ 続く ]