「宗教に支配されない国インドネシア(終)」(2020年03月18日)

では、理性が神を単一のものとしているというのに、どうしてさまざまな宗教が出現する
のか?宗教への本能的な欲求は、人間の本能と衝動が持っている感情や考えを表明するた
めの話す行為を出現させているものと酷似している、という見解がある。そのとき使われ
る言語はその者が子供のころから知っていて親しみのある言語なのだ。言語とは口から発
せられるだけのものでなく、実際に思考や行動の中でも機能しているのである。ハイデッ
ガーの文句を借りるなら、言語は存在の家language is house of beingだ。その一方で人
間ひとりひとりは、その者を育て上げたあげく最終的に文化アイデンティティとのつなが
りをイデオロギー的性格に発展させる言語と文化の嫡出子なのである。

だから複数の言語が存在するように、複数の宗教の存在は避けようがない。そのために超
言語の領域では「言語はただひとつがあるのみだ。ところが誰もが自分にとってのひとつ
の言語を話している」と言われている。同じことは宗教についても言える。真の宗教はた
だひとつあるのみだ。ところが信徒は誰もが自分にとってのひとつの宗教を奉じる傾向を
持っている。

言語の違いと宗教の違いに対する姿勢はまったく異なるものであることをわたしは十分認
識している。わたしはここでその両者を、内面的な衝動に駆られて比較してみたにすぎな
い。ともあれ、人間は生まれると個々の文化に迎え入れられる。言語には、宗教が宿して
いる生の救済の観念など存在しない。

< 国家機関の役割 >
同一の太陽をいただく同一の地球に共棲する人間が神と宗教を奉じる主体者であることを
思えば、世界の境界を超越する生の救済を与えてくれる宗教の選択は地上の生活秩序を破
壊しないものであってほしい。努力されるべきは、天の意向と地上の人間の行為の間に調
和を作り出すことなのだ。愛の源泉と信じられている神は愛情関係で結ばれた社会生活の
中にその姿を現わすべきなのである。宗教的な姿勢は全宇宙にとっての神の恩寵であるラ
ッマタンリルアラミンを招き寄せなければならない。

神を戴く人間の本性は、自由に、平和に、秩序正しく生きる人間の本性と合致するのが本
当の姿だ。それゆえに原始時代から始まって国家と呼ばれるものが出現するようになった
現代に至るまで、平和と独立を守るために人間がどのように連合しあい、社会組織を築い
てきたかに関する長いプロセスを、歴史は記録している。古代には種族と宗教のつながり
がたいへん強く、そこに感情が注ぎ込まれたときにははるかに強力な結合を示し、結合体
としてのパワーが強まれば強まるほど布教=拡張への衝動が高まって宗教的・軍事的・経
済的拡張の動きへと向かった。

最近中東で起こっている政治的激動と暴力衝突の現象は、宗教感情・経済資源争奪・軍事
拡大を分離して考えることができない。その三つが混然一体として回転しているがために、
宗教の姿をあいまいで怖ろしげなものにしている。

現代世界で国家構造はより合理的な姿をし、国民はますます複合的になっている。国民の
種族的宗教的背景がどうであろうと、国家の存在は国民のすべてを保護するために必要と
されている。宗教がその信徒に対して来世の救済を約束しているのなら、国家は全国民に
対して現世の救済を約束する責務を負っている。インドネシアの宗教と国家の関係を思い
返してみるなら、きわめて興味深い実態が見えてくる。パンチャシラに記されているよう
に、宗教と国家のアジェンダを一堂に会させるという理想的なあり方だ。国家は宗教促進
のための器と施設を与え、宗教は国家生活におけるモラルの源泉として機能するのである。

太古から、たったひとつしかないインドネシアの地にさまざまな宗教が発展した。かれら
は全宇宙を創造し統御する唯一神への確信を抱いていたのだろうが、さまざまに異なる道
をたどったため、異なる宗教や信仰流派に分かれることになった。国民がいかなる宗教を
信仰していようとも、国民の安全を守るのは国家の務めである。[ 完 ]