「ポリススト−リー(後)」(2020年03月20日)

ともあれ、主人公である警察マントリのカディルンを通して構築されたカディルン物語の
理想主義的価値が言語スタイルの弱さによって減じられることにはならない。物語の最初
から見られるように、東インドの地にモダン警察を出現させる実験をその本質としてこの
人物は登場してきているのだ。植民地政庁が実際には失敗したことがらに対してプリブミ
が繰り出したアンチテーゼなのである。カディルン物語の背景が1897年以来植民地政
庁が行っていた警察の構造改革の時期に当たっていることとの関連性が見えてくるだろう。
マリケ・ブルムベルヘンが述べているように、警察制度の構造改革は1910年になされ
たというのが公式な話ではあるのだが。

< 特別に >
カディルン物語の特徴は、当時の警察改革に応じた警察の模範人物像となるひとりのプリ
ブミの適性と能力を描いて新たな希望を打ち建てようとした点にある。つまりインドネシ
アのマルクスレーニン主義の先鋒が書いた小説の第一章でカディルンが示したような、モ
ダン警察の規準に即して働き、正しい方法で捜査を行い、良い顔を見せることを重視せず、
腐敗行為を行わない人物だ。それはプリブミ層が出したモダン警察への一個の提案と見る
ことができる。言うまでもなくカディルンは、警部の職に純血オランダ人だけを任じてい
る植民地式人事システムに向けられたアンチテーゼなのである。

植民地政庁の人種差別傾向に向けてカディルン物語はモダニズム自体をもって挑戦してい
る。すなわち合理性とプロフェッショナリズムだ。反対にオランダ人が養成した役人は、
スモガン副ウドノの姿に描かれているように、愚かさと劣悪さを示している。そんな方法
でこの小説は植民地主義が作り出した社会的病弊の各部位を取り出して見せる。カディル
ンは最初からそれを治療し修復するために用意されているのである。

著者自身もその意図をあからさまにしているように見える。物語のはじまりからして、カ
ディルンは稀有の人物として担ぎ出されている。「・・・ジャワの地で滅多に起こらない
ことだ。1万人の中にほぼひとりだけ・・・」その前のパラグラフには、副ウドノはおよ
そ1万人の人口を擁する郡を統括するという解説が見られ、基本的にカディルンのような
理想的人物はひとつの郡にひとりいるかいないかという状況であったことが述べられてい
る。言い換えるなら、19世紀末の東インドを著者は人材の払底していた時代と見なして
いたようだ。それはわれわれの持っている観念にそぐわない。われわれは19世紀末の最
後の十年間にインドネシア民族の最高の人材が輩出したことを知っているのだから。

この種の齟齬はイデオロギー的プロパガンダ的ニュアンスの作品の中に無意識のうちに出
現する当然のリスクなのだろう。そのあとカディルンはひとつの物語からもうひとつの物
語に話をつなぐ人形でしかない印象に変わってしまう。もうひとつの物語とはスマウンが
設立者にして主役となる東インド共産党の物語だ。小説の終わりごろには、その当時闘争
のためにもっとも大衆化した唯一の器としての共産党が行っていた有力者の演説や党のプ
ロパガンダがたくさん盛り込まれている。

更に「選択困難」の章では、地位の向上したカディルンが共産主義運動に邁進するか、あ
るいは権力体制側である政府から受けている職務と信頼を維持するべきかに迷って試練に
直面することになる。つまりこの章は、著者が物語のはじめに創造したカディルンのはっ
きりした性格を打ち消すものになっている。読者が失望するのは疑いがない。特に物語の
はじめに登場する主人公の性格が物語の終わりのほうで変化して行くのだから。それを起
こすのが民衆の代表者たる共産党なのである。出だしと結末が別物になる。単なる物語の
中でのできごとであって本当に良かった。[ 完 ]