「国家警察の発端は戦闘部隊(3)」(2020年03月26日)

日本軍の敗戦でいよいよ来るべき時が来たと躍り上がったインドネシア独立派にとって、
戻って来る蘭領東インド文民政府NICAとの実力戦は避け得ないものだった。いくつか
のペタ大団に日本軍の武器兵器が渡ったことは別にして、原則論から見るなら、インドネ
シア人の軍隊はろくに軍備のない人間集団に過ぎないことと対照的に、連合国が治安維持
のために存続を認めざるをえなかった警察は十分な武装と統制の取れた組織のまま残され
ている現地人戦闘部隊だったのである。その警察がインドネシア再植民地化を目指すNI
CAとAFNEIの連合軍に牙をむいた。

日本軍の襲来で植民地警察機構の指揮系統中枢部にできた空白を埋めるためにインドネシ
ア人が昇格し、日本軍政下の警察としてより充実したプリブミ組織に発展した警察は、日
本軍の敗戦に伴っていきなり独立武装機関に変身した。警察のたどってきた歴史は、まる
でこの日のために仕組まれたようなお誂え向きの構図ではないか。

1945年8月21日、スラバヤ警察のモハンマッ・ヤシン一級警部がインドネシア共和
国警察隊を標榜して独立警察を宣言し、日本軍政の指揮下から脱け出した。連合国がイン
ドネシアの治安維持を命じた日本軍を共和国警察隊は反対に武装解除し始めたのである。
その波は全国各地に波及して行った。独立したインドネシア共和国の主権を外国人の手か
ら取り戻す端緒の動きがそれだったということだろう。

モハンマッ・ヤシン一級警部はオランダ植民地時代のスカブミ警察学校最後の生徒のひと
りだったそうで、植民地政庁はかれらプリブミを警察中級幹部に養成するために西ジャワ
州スカブミに警察学校を設けて教育していた。かれは独立闘争期に警察機動旅団Brigadir 
Mobilを率いてNICA軍と戦っている。AFNEI軍が終戦処理のために進駐してきた
町ではたいてい、インドネシア共和国地元警察とAFNEI+NICA軍との間に交戦が
起こり、プリブミ青年層が警察と一緒になって戦闘が展開されている。


インドネシア共和国国家警察はその発端当初から軍隊としての性格を強く持つ組織として
スタートした。それがその後の軌跡に影響を与えていることは否定のしようがないだろう。

1945年9月24日、スカルノ大統領はラデン・サイッ・スカント・チョクロアッモジ
ョRaden Said Soekanto Tjokroatmodjoを初代警察長官に任命した。

1946年6月17日、マグランのメトロユダンに警察高等学校が開校した。

1946年7月1日、内務省内に置かれていた国家警察局Djawatan Polisi Negaraを首相
の直属機関に移すことを定めた政令第11/SD/1946号が出された。

1967年8月、1967年大統領決定書第32号で警察はインドネシア共和国軍の中に
移された。陸軍Angkatan Darat、海軍Angkatan Laut、空軍Angkatan Udara、警察軍
Angkatan Kepolisianの四軍制度が開始され、各軍は軍司令官Panglima Angkatanに統率さ
れ、四軍は国防大臣/国軍総司令官の指揮下に置かれた。

1969年7月1日、スハルト大統領は1969年大統領決定書第52号で警察軍Angkatan 
Kepolisianという名称をインドネシア共和国国家警察Kepolisian Negara Republik 
Indonesiaに変更し、警察軍司令官Panglima Angkatan Kepolisianという呼称を国家警察
長官Kepala Polriに代えた。

1999年4月1日、政府は警察を国軍に属さない独立機関とし、国防省の一機関と定め
た。

2001年1月1日、警察は大統領直属機関となる。
[ 続く ]