「プガメンとプレマンは同一か?(前)」(2020年03月26日)

ライター: 都市問題オブザーバー、ヨピー・オル
ソース: 2003年10月22日付けコンパス紙 "Pengamen Jakarta, Preman Jakarta?"

ジャカルタメトロポリタンシティのプガメンpengamenの総数はどのくらいだろうか?市内
の路上を終日往き来している都バスの総数を必ず超えているだろう。その根拠は何か?簡
単だ。われわれが毎回、どこ行きであろうと一台の都バスに乗るとき、少なくともひとり
のプガメンがバス内で稼ぎを行っているのだから。

プガメンはたいてい、声によるサービスを公衆に対して販売しようとする者と定義付けら
れている。一方公衆は、自由意思をベースにして、そのサービスへの対価を小銭で与える。
ところがこのサービス販売業は歌を歌うことばかりか、詩を詠んだり、神への祈りに乗客
を誘ったりするため、実態は少々異なるものになってくる。

ジャカルタでプガメンになるのに、年齢・性別・社会ステータスなどの条件は一切ない。
それどころか、やっと乳離れした幼児が飲み物ビンのふたで作ったキンチュリガンkincri-
nganを手にしてバスターミナルの中をうろついているのだ。まだまともにしゃべることす
らできないというのに。

シリピナンsirih-pinangを噛んでるはずのしわくちゃ婆さんが、新聞の政治欄を読んでい
るみたいにしてMbah Dukunを歌ったり、長髪のよれよれ学生がわれわれの理解できない新
しい歌詞でコットンフィールドCotton Fieldを歌ったりする。

心地よい曲をいい声で歌ってくれて、且つ持っている楽器を弾きこなしているかぎり、プ
ガメンはわれわれを楽しませてくれるものだ。しかし既に混みあっているバスの中央をス
テージにしようとして割り込んでくるとき、かれらはわれわれの邪魔になる。

プガメンは都バスに乗ったときだけわれわれと接触するものではない。最新型BMWに乗
っていればプガメンと無縁でいられるとはかぎらないのだ。赤信号で止まっているとき、
持っているギターを一回ジャンと鳴らしただけで歌も歌わずに手を差し出して来るプガメ
ンに、われわれは小銭を渡してやらなければならない。そうしなければどうなる?小銭を
やるか、それとも車のボディに作られたひっかき傷を塗装するために数百万ルピアを出費
するか。あなたならどちらを選ぶだろうか?


ジャカルタのプガメンたちが歌っている一曲のお値段は、本当のところいくらなのだろう
か?なんと、驚くほど廉い。パディのヒット曲であろうが、イワン・ファルスの心を燃え
立たせる名曲だろうが、あるいはボブ・マーレー印のエスニック曲だろうが、グリーング
リーングラスオブホーム型であろうが、出費はチュペcepek、すなわち百ルピアで十分。

ただし、献金缶を突き付けられたときに知らんぷりするのは良くない。そんな態度はアー
チストのシニカルな怒りを招く。正直に首を横に振るほうがよい。わたしゃ今ちょっとボ
ケッbokekなのよ、というボディランゲージがそのしぐさなのだ。(訳注:bokekというの
は純然たるインドネシア語で、ノーマネーを意味する。日本語のボケではない。)

プガメンがプレマンに区分されている話は納得できない。昔から真のプガメンというのは
喉で稼ぐアーチストだったのである。長髪であろうが、坊主頭であろうが、関係ない。ア
ーチストというのは、バスの乗客と同様に、マージナルな存在なのだ。つまり本当のプガ
メンは決して他人にゆすりたかりをするような人間ではないのである。[ 続く ]