「ジャカルタ首都警察(4)」(2020年04月02日)

日本が敗戦したとき、警察の機能に動揺は起こらなかったにちがいあるまい。それまでも
プリブミの組織として自転しており、敗戦で変わったのは異民族の目付け役がいなくなっ
たというだけの話なのだろうから。

1945年9月にジャカルタに上陸したAFNEI軍の憲兵隊が大ジャカルタ警察庁と協
議を行い、ジャカルタの治安維持に関する責任分担を明確化させた。会議は1949年1
0月19日に行われ、ジャカルタ警察はシディッ・アデイサプトラM. Sidik Adisaputra
が代表し、AFNEI軍憲兵側代表者はハーディング少佐Major Harding、スミス大尉
Captain Smith、マッス少佐Majoor Masse、バウル大尉Kapitein Baulesだった。しかしN
ICA軍はその取り決めをまったく尊重しなかった。

1945年11月17・18・19日、AFNEIとNICAの連合軍は戦車と装甲車を
擁する強力な戦闘部隊を出してスネン地区の制圧を行った。制圧行動の焦点はムスリム集
会所とプラパタン地区警察署であり、たちまちプリブミ青年層が現場に集まってきて武力
で対抗したために大規模な戦闘に発展した。
戦闘は都内各所に拡大して行く。プタンブランPetamburan、ホテルデザンドHotel Des 
Indes周辺、キャピトルCapitol、ジャティヌガラJatinegara、タナティンギTanah Tinggi、
ラデンサレRaden Saleh、チキニCikini、タナアバンTanah Abang、クブンシリKebon 
Sirih、プトジョPetojo、ジャガモニェッJaga Monyet、・・・・

内戦状態が継続したため、NICA+AFNEI軍は1945年12月29日に決着をつ
ける動きを始めた。ビルというビルが完全武装の兵士に包囲され、ひとつひとつが占領さ
れ、プリブミ青年層の徹底的な駆逐と武装解除が行われた。路上にいた警官も逮捕され、
あるいは武装解除された。

大ジャカルタ警察庁や国家警察の上層部も逮捕されて大ジャカルタ警察庁本部に拘留され
た。国家警察長官がオランダ警察のノールドホールンNoordhoornチーフコミッショナーに
不協力を申し入れたところ、拘留されていた警察上層部の多くはそのまま釈放された。し
かし1949年のインドネシア主権承認の日を留置場で迎え、やっと解放された警察職員
もいた。


NICAは大ジャカルタ警察庁を解散させ、CP (Civil Police)と命名した国際警察組
織を作った。イギリス人、オランダ人、インドネシア人がそれぞれ3百人で構成される寄
り合い所帯警察がそれで、それぞれの警察部隊は割り当てられた地区を担当し、所轄地区
の警察活動はそれぞれが自分のやり方を適用した。

イギリス警察隊の長はハーディング中佐Letnan Kolonel Hardingでインドネシア国家警察
のユスフ・マルタディラガ警視Komisaris Polisi Yusuf Martadilagaが補佐した。オラン
ダ警察隊の長はノールドホールンNoordhoonで補佐したのはオランダ人コイストラ大佐
Kolonel Kooistraだった。


NICAはAFNEIに支援されてジャカルタの支配権掌握を進めて行った。プリブミ青
年層がインドネシア共和国独立死守を叫んで抵抗しても、AFNEI軍がそのエリアを制
圧して占領し、占領地区をNICAに譲り渡していくのだから、共和国エリアは縮小の一
途をたどるしかない。

オランダ人植民地主義者が自由に動けるスペースが増加すると、不穏な動きが強まった。
1946年1月2日夕方、オランダ人過激派がスタン・シャッリル首相に対する殺害行動
を行って失敗した。インドネシア共和国首脳の安全を図ることが緊急事態となる。NIC
A+AFNEIから安全でいられる場所はヨグヤカルタスルタン国王都だ。共和国は首都
移転を決めた。

大統領と副大統領およびその家族をジャカルタからヨグヤカルタに安全に移すために、国
家警察が警護の任に就いた。一行は隠密裏に汽車でジャカルタからヨグヤに移動した。マ
ルジャマンMardjaman警部とウィナタWinata二級警部補がその特別任務の警官隊を率いて
正副大統領を無事ヨグヤカルタに送り届けた。[ 続く ]