「コニングスプレイン(3)」(2020年05月14日)

1942年3月に蘭領東インド植民地軍バタヴィア防衛部隊は日本軍到来を前にしてバン
ドンに移動し、バタヴィアを明け渡したから、つまるところファン・デン・ボシュの心配
はまったくの徒労に終わったことになる。

ヴィルヘルミナパルクの入口にモニュメントが建てられた。背に翼を持つギリシャ風の女
神像が高さ15メートルの台座の上に立っているものだ。アチェ戦争で没した兵士の慰霊
のためのこの碑はアチェモニュメントAtjeh Monumentと呼ばれた。


インドネシア共和国が独立したとき、バタヴィア住民プリブミのマジョリティを占めるム
スリム層は、バタヴィアの街に大モスクMesjid Rayaがないことを強く訴えた。地区によ
って地元住民が集まることのできるモスクはタナアバン、クウィタンKwitang、プコジャ
ンPekojan、マトラマンMatramanなどにあるにはあるが、都市住民があらゆる場所から集
まって来ることのできる、その都市を象徴する大規模モスクがないという意味だ。

一方で、新生ジャカルタの都心部には歴史を誇る大型教会が大通り沿いに立ち並んでいる。
それもそうだろう。バタヴィアの街はオランダ人が自分たちのために建設した街であり、
かれらが街中の大通りに建てる宗教施設はキリスト教のものに限られていたわけで、プリ
ブミのために大モスクを一等地区に建ててやろうなどという考えはさらさら持たなかった。
なにしろかれらにとって、プリブミは犬と同じだったのだから。

イスラム大祭に住民がこぞって集まることのできる大モスクが大通りやアルナルンalun-
alunに面して作られることはムスリム住民にとっての夢であり、インドネシアが独立した
今、夢をかなえるための機は熟したと政府から住民までが思ったのも自然の成り行きだっ
た。独立の意味はそんなところにも出現する。


大モスク建設場所についての議論がなされた。ハッタ副大統領は後にホテルインドネシア
が建てられる地区をムスリム住民が多いという理由で提案し、都民の一部はガンビル広場
周辺を推奨した。ところがスカルノ大統領はヴィルヘルミナパルクにすると言い出したの
だ。

その時期、フレデリック・ヘンドリック要塞はインドネシア国軍の火薬庫に使われており、
またその周辺は軍用車両の保管場所としても使われていた。おまけにヴィルヘルミナパル
クは歴史的価値を持つ公園なのである。もっと言うなら、オランダ植民地時代にオランダ
人のエリート地区だったヴェルテフレーデンからコニングスプレインKoningsplein周辺に
かけての一帯はオランダ政庁関係者が多数居住していた場所であり、ムスリムのプリブミ
居住者はマイノリティにすぎなかった。

ところがそんな反対論もものかわ、スカルノのオランダ遺産嫌悪がここにも顔を出した。
スカルノはオランダの要塞を破壊することを主張し通した。


独立の意味を持つアラブ語イスティクラルと命名された大モスクのデザインが1955年
に一般公募されて、31の応募があり、コンテスト資格を満たす者はそのうち22で、そ
して最終選考は5作品に絞られた。

最終審査に残ったフリードリ・シラバンFriedrich Silaban、ウトヨR Oetojo、ハンス・
フルネヴェーヘンHans Groenewegen、バンドン工大5人のグループと3人のグループの中
で、コンテスト委員会が決定を下したのはキリスト教徒の建築家シラバンの作品だった。
シラバンはオランダで建築学を学んでいる。

その応募に際してシラバンは、イスラム建築やイスラム教徒の作法や習慣について、集中
的に勉強したそうだ。1970年のコンパス紙に掲載されたシラバンとのインタビューの
中でかれはその設計について、ムスリム層の希望を採り入れた上で建築学上の法則を熱帯
の地に適応させたものだ、と語っている。一等賞の賞金は2万5千ルピアと黄金75グラ
ムだった。その時代のルピア対米ドルレートは20〜30ルピアくらいだったようだから、
今の貨幣価値と混同してはいけない。[ 続く ]