「インドネシア消防小史(1)」(2020年05月15日) わたしがインドネシアに暮らし始めたころ、周囲のインドネシア人がbranmirやbranwirと いう言葉を口にするのに戸惑った。消防車を指して述べている言葉なのだが、人によって -mirであったり-wirであったりしたための困惑だ。いや、それ以上に、このムラユ語らし からぬ奇妙な音の単語の正体が分かっていなかったからと言うほうが当たっているだろう。 話では、東ジャワのマラン住民はblangwirと発音していたそうだから、そのときマラン人 もわたしの周囲にいて口を開いたなら、わたしはきっと目を回したにちがいない。 それがオランダ語のbrandweerに由来していることを知って納得した。なじみのない発音 に接して、その音がまず耳に捉えられ、耳から口に伝搬されて再生されるときによく起こ るケースがこれだ。この種の紛糾は、奇妙な音の外来語が自国語にされるとき、文字化さ れることで紛糾が収束していくのが常道であり、1970年代から80年代にかけてのイ ンドネシアで一般大衆にとっての文字化の影響は推して知るべしだったから、その種の現 象はあって当然のものごとだったわけだ。 オランダ語のbrandweerは正確には消防署や消防隊のことであり、消防用車両はbrandweer- wagenであるから、単語が移されるときに起こる意味の変化がここでも起こっている。 もちろんインドネシア語にも消防署や消防隊などの組織や機関を指す言葉は昔から既に存 在しており、消防車はそれ用の車mobil pemadam kebakaranが標準インドネシア語にはな っていた。しかしわたしの周囲のインドネシア人のマジョリティはなぜか、branwirの語 を発する方が多かったように記憶している。 現在はpemadam kebakaranが短縮語にされてdamkarと呼ばれているので、これまた外国人 を面食らわせる言葉が依然として飛び交っていて、知りたがり屋にはたまらない風土が維 持されている。 インドネシア人にとってのbranwirという言葉の存在が物語る通り、消防制度はオランダ 植民地時代に作られたものだ。共和国独立によって、それがインドネシア人に引き継がれ たという歴史になっている。 都庁消防局の歴史解説によれば、1873年にジェイムス・ラウドンJames Loudon第57 代総督がバタヴィア市消防隊を設けたのがその事始めだそうだ。しかしこの消防隊は世間 一般の火災を扱うものでなかったらしい。だから世間一般、ましてやプリブミのカンプン は自力消防に頼らざるを得なかった。 この自力消防というのは雇われ警備団の夜回りが前哨部門になる。警備団は夜間、地区詰 所を根城にして犯罪や火災の早期発見のために地区内を巡回した。つまり消防専門でなく、 地区の保安全般を管掌するものだった。 夜回りの詰所には必ずクントガンが置かれて住民に対する通知機能を担った。音の大きさ ・リズム・打たれる回数などが通知内容を示した。異変を知らせるときには、大きな音と 緊迫感のあるリズムが用いられた。火災があれば、単音が連続的に打ち鳴らされ、押入り 強盗やアモックが起これば三拍子打音が繰り返し打たれた。アモックは決して稀なもので なかったようだ。 クントガンについては、2019年6月の5連載記事「クントガンに想う」をご参照くだ さい。 http://indojoho.ciao.jp/newsmenu1906.htm [ 続く ]