「コニングスプレイン(6)」(2020年05月19日) そのような経緯で、ナポレオンの香りを漂わせるシャンドマルはイギリス人がオランダ王 国誕生を祝してコニングスプレインに名称を変えた。そしてラフルズ時代には馬が大好き なイギリス人が、競馬をしたり馬を駆るためにその広場を使っていたそうだから、軍隊の 演習に使われる頻度は低下していたのではないかというのがわたしの推測である。 軍隊の演習が行われなくなると、コニングスプレインで牛を放牧する者たちが出現した。 かつてのブッフェルスフェルドの復活だ。当然ながらバタヴィア市はそれを禁止した。も はや昔の時代に戻すことはできないのだ。するとあるとき、牛肉販売の商売をしている市 民が突然、東インド参議会Raad van Indie/Dewan Hindia議員になりたいと申し出た。そ の理由が振るっている。社会的名誉が欲しいわけではない。金を容易に手に入れることの できる立場になって、あぶく銭をわしづかみしたいというわけでもない。しっかりと自分 の商売に精を出したいのだとかれは言った。 東インド参議会議員になれば、バタヴィア市の規則を破ったところで、だれもなにもでき ないのが世の実態なのである。国家レベルの役職者になれば、市が禁止していようともコ ニングスプレインで養牛を行える。町のど真ん中で牛を飼育し、その肉を販売するという 最大効率の事業が行えるのだ。 かれがめでたく目論見通りのことを行ったのかどうかはよく分からないが、国家参議会の 議員は市の規則より上位にあって、お偉いさんが規則を踏みにじっても誰にもそれを止め ることができないという植民地の社会状況がそこに赤裸々に描かれているではないか。現 代インドネシア人のビヘイビアを支えている原理には、遠い昔からのお手本があったとい うことにちがいあるまい。 1896年に発表された小説「ニャイ・ダシマ」は19世紀前半のコニングスプレイン東 の状況を背景にしている。ラフルズ統治期のジャワにやってきたイギリス人エドワード・ ウイリアムスがバンテン地方の農園に職を得て働いているとき、スンダ人美少女をニャイ に得る。イギリス統治期が終わってオランダに統治権が戻されると、エドワードは仕事を 失ってニャイと共にバタヴィアに移る。 現在イスティクラルモスクの南側はプルタミナビル、そして運輸省海運総局と続いている。 その地区には最初、広い敷地に建てられた豪壮なヴィラが並んだ。そこはチリウン川をは さんでヴェルテフレーデンに隣接する当時の民間向け一等地だったようだ。エドワードと ダシマはその一軒を借りて住んだ。 ニャイ・ダシマの悲劇はこちらでどうぞ。 http://indojoho.ciao.jp/archives/library010.html だがその地区には20世紀前半に大規模オフィスが建てられて、豪奢な暮らしを謳歌した 時代は終わりを告げる。1916年に海運会社KPM Koninklijke Paketvaart Maats- chappijがそこにオフィスを設けた。KMPは植民地時代にインドネシア内国航路を運航 していたが、インドネシア主権承認以後もインドネシア化されることを拒否してオランダ 国旗の下に内国航路での運航を続けた。だが最終的に1957年の西イリアン解放戦争の 時にオランダ資産が国有化され、KPMもインドネシアから退去する。その結果、運輸省 海運総局がその建物を使うことになった。 もうひとつのプルタミナビルはバタヴィア石油会社Bataafsche Petroleum Maatschappij が1938年に建てたもので、インドネシア主権承認後共和国陸軍がそこに入り、ナステ ィオン将軍がイブヌ・ストウォ大佐に命じて作らせた石油会社PT Pertaminaが1957年 12月から業務を開始している。[ 続く ]