「インドネシア消防小史(2)」(2020年05月19日)

火災の場合、発見した後は消火活動に引き継がれなければならない。あちこちのカンプン
の間で、消防団を設けるところがあった。税金を払っていない無職の青年たちが消防団員
にされ、昼間はもとより、夜中であってもクントガンが火災警報を打ち鳴らせば、消防団
員は誰よりも先に現場に駆けつけて消火活動に従事しなければならなかった。消火活動に
携わるとき、団員は腕に数字の書かれた布を着けた。火事場泥棒でないことをアピールす
るためもあったが、活動が優秀と認められた者には金一封が出されたからだ。


しかし住民は市行政による住民サービスへのコンセンサスに向かいはじめて、自力消防は
徐々に影を薄くするようになっていった。大小規模の火災は必ずと言っていいほど起こっ
ていたが、クラマックウィタンKramat Kwitang村で発生した特大規模の火災がバタヴィア
市庁の決意を促すことになった。バタヴィア市庁は消防体制を構築するために、植民地軍
の将校デ・ヴェイスRBM de Wijs退役中佐を消防隊長に任命して隊編成案を作成させ、一
年後にバタヴィア市消防隊を発足させた。

1919年から本部をガンビルGambir地区に置いて、住民サービス活動が開始された。1
917年に輸入されたアーベンツ製消防車2台と蒸気タービンで動く噴水機が配備され、
消防車と機材はヴェルテフレーデン鉄道駅に近い場所に常駐したが、浅い消火知識と経験、
そして耐圧ホースが潤沢にないといったことが、消火活動の成果を決して目覚ましいもの
にしなかった。

ガンビルの消防隊本部は木造の仮設型で、市側は最初から仮住まいさせる意図だったよう
だ。それからかなり経ってから本部はクタパン通りGang Ketapang(今のJl KH Zainul 
Arifinで、消防署が置かれたためにBrandweerwegとも呼ばれた)に移されて今日に至って
いる。クタパン通りの本部は恒久建造物と充実した諸設備を持つものになっていた。

1920年まではガンビルに本部があったことが確認されているが、その後いつクタパン
通りに移転したのかは、それを明瞭に示す資料がないため不明のままになっているそうだ。


当時の消防車は水タンクに注水して走るものでなく、水は現地調達であり、車に積まれて
いるのははしごとホース、および手動の水ポンプだった。そしてまた、消防隊員が身に着
ける作業衣は耐火性のものでなく、レインコートだった。隊員と火の関係よりも、隊員と
水の関係の方がはるかに密接であったことをそれが示しているようだ。「防火活動とは水
を浴びることなり」が真理だった時代がそれだろう。

だがいかにチリウン川が支流を網の目のようにめぐらせ、おまけに運河が網の目をさらに
密にしていても、水の便から遠い場所で火事が起こるばかりか、乾季には水流が涸れ、た
とえあっても吸い上げれば大量の泥が水よりたくさん入って来ることになる。そのために
バタヴィア市消防局は住宅地区に消火用水池を作り、井戸を掘って池に地下水を流し込み、
水を溜めていた。

バタヴィア市消防隊は設備の向上をはかり、また知識と経験の積み重ねを活かして、バタ
ヴィア市民の安全を保護する機能を確立しはじめた。それを証明するものが、現在の消防
統括本部に保存されているバタヴィア市民からの記念碑だ。1929年3月1日の日付が
入った記念碑にはこう記されている。

かつて火災が礼拝所や家屋を焼き尽くすのを防ぐことは容易でなかった。これまでの十年
間、ブランウィルが登場して火災に立ち向かい、その勢いを防いだことは、われわれの喜
びとするところである。・・・[ 続く ]