「インドネシア消防小史(終)」(2020年05月22日) バタヴィア城市内というのは運河が縦横に巡らされた町設計になっていた。現在のジャカ ルタコタトゥア地図と対照するなら、エリート地区だったカリブサール東エリアは; 東西方向 Jl Nelayan Jl Kali Besar Timur 1 Jl Kunir 南北方向 Jl Cengkeh Jl Cengkehの東側を並行して南北に走る道 一方、下層庶民の居住と活動エリアだったカリブサール西地区は; 東西方向 Jl Kembung Jl Petak Asam Utara Jl Tiang Bendera 南北方向 Jl Roa Malaka Selatan Jl Tiang Bendera 1,2,3,4 が元々は運河であり、現在の道路構成はそれらの運河が埋め立てられた後のものになって いる。上の道路はそれぞれが最初は運河の両岸の道だったということだ。 生活環境のすぐ近くに運河を作って水流を配したのは生活用水の便が考慮されたためだろ う。しかし往時の生活用水の便というのは、排せつ物を流し去ることも含まれていた。ヨ ーロッパ人がやってくる以前から、チリウン川はプリブミにとってMCK(mandi-cuci- kakus)のための重要な機能を果たしていたわけで、一部の人間は現代までそれを続けてい るのだから、17〜18世紀に行われていたのも当然の話であり、ヨーロッパ人もバタヴ ィアで同じことをしたというだけのことである。 チリウン川の水はヨーロッパ人の尻から出たものであろうがプリブミの尻から出たもので あろうが、人種差別などなしに病原菌を運んでいたのだから、井戸を掘らないかぎり、そ の影響から免れることはなかっただろう。バタヴィアはオランダ人の墓場というセリフが 人口に膾炙しているものの、ジャボデタベッも昔は同じレベルでプリブミの墓場だったの ではあるまいか。コレラや赤痢にやられて死んで行ったのは決してオランダ人だけだった わけではあるまい。この種の偏った表現はわれわれを知らず知らずのうちにレーシストに してくれるようだ。 で、本筋の話に戻すと、バタヴィア城市内で起こった火災はどのようにして消火活動がな されただろうかというのがここでのエピソードである。手近に得られる地上水を火元に浴 びせかけるのが、太古からのユニバーサルな消火方法だったことは想像に余りある。 夜9時の花が城市内の川と運河を覆った後に火災が発見されたら、いったい何が起こるだ ろうか。バタヴィアでは、火元になる人間はよくよく時間を気にしなければとんでもない 副次被害を被らなければならなかったはずだ。夜間に火を出して副次被害を受けた者はき っと、同じ火を出すなら昼間にしなきゃ、と肝に銘じたのではあるまいか。[ 完 ]