「コニングスプレイン(9)」(2020年05月26日)

続いて、植民地時代の雰囲気を満喫させてくれる食事処ダプルババDapur Babah Elite & 
Tao Barがある。1920年代の建物を買い取ってレストラン兼バーに改装したこの店は、
植民地時代の華人プラナカンの生活を彷彿とさせる雰囲気を売り物にしているようだ。ダ
プルババが2004年12月にオープンする前はそこにハップティオンHap Tiongテイラ
ーがあったそうだ。

更に下ると、昔はイタリアレストランのドムスDomusが営業していた建物がある。かなり
昔に営業をやめてしまったのは、実に残念なことだった。ロマンとエキゾチシズムを求め
てわたしが何度か訪れたころは既に客の入りがあまり良いとは思えなかったから、仕方の
ない結末だったのだろう。

この商店街の端で今営業しているニュージアムカフェNewseum Cafeはかつて、黒猫Le Chat 
Noir/Black Cat Clubの名前で世に知られていた。黒猫がいつから営業していたのか、はっ
きりしたことは分からない。二十世紀前半は、バタヴィア中流層がナイトライフの一部と
して集まって来る場所になっていた。

バタヴィアのルシャノワールの名が語られるとき、ひとびとの脳裏にはそこを頻繁に訪れ
た著名人の名が電光のごとくよぎったにちがいあるまい。ヨーロッパでダンサー・娼婦・
二重スパイの三位一体を働き、汚名の中で銃殺刑による生涯を終えた女性マタハリもその
ひとりだろう。マルハレータ・ヘールトリュイダ・ゼレMargaretha Geertruida Zelleを
本名にするかの女はオランダ人を父、ジャワ人を母とする欧亜混血者で、自分の通称を太
陽Matahariとせず、eye of the dayを意味するMata Hariとした。

あるいは南スラウェシで残虐な大量虐殺者として名を轟かせたオランダ人レイモン・ヴェ
ステルリンRaymond Pierre Paul Westerling大尉も頻繁にそこにやってきたそうだ。
ヴェステルリンは最初、イギリス軍によって特殊部隊員の訓練を受け、AFNEI軍と共
にインドネシアにやってきた。イギリス領インド軍が主体のAFNEI軍は、インドネシ
アでのヨーロッパ人捕虜収容所の解放と日本軍の武装解除および本国送還を主要任務とし
て進駐してきた。その任務が終われば、インドネシアをオランダ植民地政府に引き渡して
日本軍進攻前の状態に復帰させることを最終目的にしていたから、オランダ王国軍人であ
るヴェステルリンがAFNEI軍に混じっていたのも当然の話だ。そのときかれは軍曹だ
ったようだ。
AFNEI軍の話はこちらでどうぞ。
http://indojoho.ciao.jp/koreg/hbatosur.html


NICA(蘭領東インド文民政府)軍治安維持部隊として特殊部隊DSTが1946年7
月に不穏な南スラウェシに派遣されたとき、かれは少尉としてその指揮官の任に就いた。
47年3月、南スラウェシの不穏な状況が解消されてDSTがバタヴィア本部に戻ったと
き、軍内部における特殊部隊とその指揮官の評価は絶大なものになっていた。48年1月
にはDSTの規模が拡大されてKSTとなり、ヴェステルリンは大尉に昇進して新特殊部
隊司令官の地位に就く。

ところが南スラウェシを平穏化させるためにDSTが行っていたことが薄皮をはぐように
して世の中に知られるようになっていった。おまけにKSTが西ジャワでの治安維持行動
に加わると、特殊部隊員はスラウェシで行ったことを当然であるかのように繰り返し始め
たのである。

スラウェシではかれらの実際行動を見聞したオランダ人がいなかったために、プリブミの
噂話としてしか伝わってこなかった情報が、オランダ人があふれている西ジャワでは世間
周知のことになってしまったのだ。KSTは殺人狂の集団であるということが。

そのような歴史を持つミステリアスな雰囲気に満ちたルシャノワールは今や、明るく健全
なカフェ&バーになっている。建物は往時のものが維持されているので、わたしと同病の
方々は一度立ち寄ってみるのも一興だろう。[ 続く ]