「コニングスプレイン(11)」(2020年05月28日)

バタヴィア芸術科学ソサエティは1778年にレイニア・デ・クラーク第30代総督(臨
時)が発足させたアジア最初の学術機関であり、その母体となった私的活動グループの中
心人物だったラデルマッハーJCM Radermacherは最初、バタヴィア城市内のカリブサール
Kali Besar沿いにある自宅をその活動の本部にした。

かれは多数の蔵書や標本をソサエティに寄贈し、その後も有用な書籍や標本資料などが増
加したために本部は半ば図書館兼博物館と化して、本部の拡張が重要問題になってしまう。
ラフルズ総督はその対策として本部をハルモニー社交場に移すことを決め、しばらくはハ
ルモニーの敷地内にある別棟がソサエティの本部になっていた。

しかし数十年経てば、また同じことが繰り返される。植民地政庁は結局コニングスプレイ
ン西に大型の専用建物を作ることを1862年に決定し、そこをソサエティの本部にした。

この本部に移された大量の蔵書と標本資料は図書館並びに博物館として1868年から一
般公開された。その後、図書館部門は国立図書館となって別の場所に移り、この建物は博
物館だけが残されて、現在の国立博物館になっている。

国立博物館の表正面に立っている銅製の象は、1871年にバタヴィアと周辺地域を訪れ
たタイ国王チュラロンコン・ラマ5世が寄贈したものだ。国王はこの博物館を見学して標
本資料の豊かさに感動し、記念に像を贈ることにしたと言われている。その像のおかげで
この博物館をプリブミは象館Gedung Gajahあるいは象博物館Museum Gajahと今でも呼んで
いる。

1923年、植民地政庁の一機関だったソサエティはオランダ本国に認められて、王国名
を名乗ることを許された。こうして名称はオランダ王国バタヴィア芸術科学ソサエティ
Koninklijk Bataviaasch Genootschap van Kunsten en Wetenschappenと格上げされた。
しかし1950年1月、インドネシア共和国主権承認に伴って、この学術機関はインドネ
シア文化院Lembaga Kebudayaan Indonesiaと名が変わった。


植民地政庁がコニングスプレイン西に用意したバタヴィア芸術科学ソサエティの地所は、
その南側の土地も含んでいた。今、国立博物館の北にはムセウムMuseum通りがあり、博物
館〜国防省と並んだ南側にも道路がある。多分その区画がソサエティ本部館を建てる際に
用意された土地だったのだろう。

1924年に政庁は博物館の南側に空いていた土地に法科上級学校Rechst Hogeschoolを
作った。倫理政策に従って、プリブミに対する高等教育の一環として設けられたこの学校
は、後の独立運動の志士を大勢輩出している。共和国独立後誕生したインドネシア大学法
学部の前身がこの学校だった。日本軍政期にはこの建物に憲兵隊司令部が置かれ、現在は
インドネシア共和国国防省になっている。


コニングスプレイン西の区画の最南端には現在インドサッIndosat本社があり、その北側
が観光省のサプタプソナSapta Pesonaビルだ。サプタプソナビルの建っている場所には1
897年に蘭領東インドスポーツカンパニーThe Netherlands Indies Sports Companyが
本社館を建てて、サイクリング・ゴルフ・クリケット・テニスそして競馬に至るまでスポ
ーツビジネスを幅広く取り扱っていた。1890年代にはバタヴィアで自転車熱が沸騰し
たそうで、自転車売買や修理サービスは大いにこの会社の利益に貢献したことだろう。

スポーツカンパニーの後、その場所に小型ドームを持つ四角いビルが建てられた。フリー
メーソンのロッジだったそうだ。そこも同様に悪魔館と呼ばれたかどうかは判然としない
が、いずれにせよ1962年にスカルノがフリーメーソンを非合法化したために、このロ
ッジは維持できなくなったにちがいあるまい。[ 続く ]