「コニングスプレイン(12)」(2020年05月29日)

コニングスプレイン西のこの区画の最北端はいま、人間開発文化統括省の本庁になってい
て、敷地内の高層ビルの手前に植民地時代に建てられたコロニアル様式の建物が残されて
いる。それは海運会社の事務所として使われていたものだ。

その南隣には国営ラジオ局RRIRadio Republik Indonesiaの本社とスタジオがある。1
970年代のジャカルタにはまだ音響効果の優れたホールがあまりなかったため、RRI
の大ホールがさまざまな演奏会によく使われていた。政府機関であるRRIの公式発足は
1945年9月11日であり、日本軍政期に日本軍が6都市に置いたラジオ放送局を引き
継ぐ形で放送事業を開始した。

インドネシアにおけるラジオ放送の歴史は、バタヴィアラジオ協会Bataviaasche Radio 
Verenigingを嚆矢とする。この民間ラジオ局は1925年6月16日からバタヴィアのモ
ーレンフリート西にあるホテルデザンドの一室で放送を開始した。

次いで1934年に元々は民間資本の蘭領東インドラジオ放送会社Nederlandsch Indische 
Radio Omroep Maatschappij(NIROM)がバタヴィア・バンドン・メダンで放送を開始
した。それと前後して1933年のソロを皮切りに、1936年までの間にバタヴィア・
バンドン・スラバヤ・マディウン・ヨグヤカルタ・スマランでプリブミのラジオ局が続々
と放送を開始する。

NIROMは植民地政庁の支援を受けて蘭領東インドの公的ラジオ局の役割をたどること
になる。NIROMのバタヴィア本社はコニングスプレイン西の、現在RRI本社がある
場所だった。NIROM時代の建物は日本軍政期と共和国時代の数十年を経た1977年
4月に現在のRRI建物に大改装されている。


コニングスプレインを囲むエリアの開発が南へ伸びていく中で、クブンシリ通りとコニン
グスプレイン南Koningsplein Zuid通りにはさまれた地区もバタヴィアの住宅地区に変わ
って行った。そこが当時のバタヴィアという都市の最南端であり、レイスウェイクのよう
な華やかさを望みようもない末端住宅地と位置付けられたのは疑いようもない。

特にこの地区の西部はレイスウェイク通りから下って来るステータスの終点に位置してお
り、南のクブンシリ通りへ出るには、細い小路を通らなければならない地理的条件になっ
ていた。今の西ムルデカ通りに南からつながってくるタムリン通りは、植民地時代にまだ
存在していなかったのである。

インドネシア共和国独立後、政府はジャカルタ南部のクバヨラン地区にニュータウン建設
を計画した。具体的な内容を企画したのはトーマス・カーステンThomas Karstenの弟子モ
ッ・スシロMoh. Soesiloで、1949年3月8日から建設工事が始まり、1955年に完
了した。このニュータウンはクバヨランバルKebayoran Baruと名付けられた。

このニュータウンとモーレンフリート両岸からムルデカ広場に至るジャカルタ中心部を結
ぶ全長7キロの幹線道路が必要になる。道路建設は南側4キロ区間と残りの北側の二段階
に分けて行われた。南側はスディルマン将軍通り、北側はMHタムリン通りという名称が
与えられた。

幹線道路建設は初め1950年完成予定の日程が組まれたものの、居住民を建設予定地か
ら退去させるのに疲労困憊してしまった。居住民は不法居住者なのだが、素直に追い払わ
れてはくれない。交渉があり、デモがあり、官憲との衝突があり、といったよくあるプロ
セスを経て、政府側がかれらの代替居所としてブンドゥガンヒリルBendungan Hilir地区
に移転先を用意することでやっといざこざが収まった。その幹線道路の開通は1952年
だった。

かろうじてコニングスプレイン南通りは更に西進して中型規模のガンスコットGang Scott
(今のブディクムリアアンBudi Kemuliaan通り)につながり、タナアバンとの連絡を容易
にしていたが、南のクブンシリに向かう際の中級道路はずっと東にあるガンホレGang 
Holle(後のサバンSabang通り、今のハジアグッサリムHaji Agus Salim通り)まで回らな
ければならなかった。[ 続く ]