「コニングスプレイン(13)」(2020年06月02日)

18世紀前半にユスティヌス・フィンクJustinus Vinckが作ったスネン市場とタナアバン
市場を結ぶ小道(クブンシリ通り)は、1830年代にファン・デン・ボシュ防衛線構築
のために整備されて立派な道路になり、コニングスプレイン裏の新道という別称で呼ばれ
るようになる。その新道の道路沿いが開発されて行くのも時間の問題だったと言えよう。
ガンスコット沿いの地区は1860年代以降の数十年間、バタヴィア庶民層に人気のある
住宅地区だった。

スマラン港で港湾管理の要職を務めたイギリス人ロバート・スコットは1820年にバタ
ヴィアに移り、コニングスプレイン南通りの突き当たり地区を住宅地に開発して、中央に
ガンスコットを通した。その住宅地区はスコット村Kampong Scottと呼ばれて人口に膾炙
した。スコットの自宅はコニングスプレイン西通りとガンスコットの角地だったようだか
ら、きっと現在のインドサット本社がある場所だったのだろう。

さすがにカンプンという名称が言い表す通り、ガンスコットの両側に並ぶ住宅は当時の他
の住宅エリアに比べて狭い地所に建てられており、南側のクブンシリ通りに面して並んで
いる建物群よりもごみごみした印象は避けられない。

だがこのガンスコット南エリアは1963年にインドネシア銀行の敷地にされて、そのブ
ロックにあった建物は一掃された。その東端に1831年に建てられてあったアルメニア
教会も取り壊された。

アルメニア人の東インドでの歴史は古い。17世紀半ばごろ、アルメニア商人はスパイス
貿易を行うためにマルクに渡来して住んだ。バタヴィアが東インドの中心になっていけば、
バタヴィアに移る者が出て当然だ。1747年3月、東インドVOCはアルメニア人コミ
ュニティにヨーロッパ人と同等の権利を認める決定を下している。

1831年、アルメニア人有力者がコニングスプレイン南のその場所に自費で木造のチャ
ペルを建てた。ところが十数年後、火事のためにそのギリシャ正教のチャペルは焼け落ち
てしまう。

1852年、アルメニア人コミュニティはちゃんとした教会を建てることを決めて、資金
を募り始めた。建設工事は1854年5月に開始されて、1857年に完成した。だがそ
の寿命は百年そこそこでしかなかったのである。その背景には、第二次大戦後、インドネ
シアに住んでいた大勢のアルメニア人が米国へ移住したことが関わっているのかもしれな
い。1976年のインドネシアの統計によれば、全国にいるアルメニア人は3百人ほどで
しかなかったとのことだ。


インドネシア銀行の前身は植民地時代の1828年に現在のジャカルタコタ駅向かいに建
てられたジャワ銀行De Javasche Bankだった。ジャワ銀行は造幣と貨幣流通のための銀行
として発足した。1953年に共和国政府はジャワ銀行を国家中央銀行に変える。

タムリン通り西側にインドネシア銀行ビルが完成して、1963年7月にコタ駅前の旧ジ
ャワ銀行から移転が行われた。9階建て新ビルの設計はイスティクラルモスクをものした
Fシラバンだった。それからかなり後になって、その両側に30階建ての新たなツインビ
ルが増築され、インドネシア銀行の地所が満たされることになる。新ビルのオープニング
は2005年に行われた。それまで残されていたガンスコット南の民家や建物はすべて消
滅し、古いモスクと病院だけが残されて今日に至っている。[ 続く ]