「コニングスプレイン(16)」(2020年06月05日)

このバタヴィア近郊域内鉄道路線はジャワ島内各地を結ぶ長距離鉄道網とのネットワーク
を密なものに練り上げていく一方で、バタヴィア近郊路線そのものは電化の方向へと進め
られていった。

SS社の鉄道電化方針は避けようのないものだった。というのも、民間会社バタヴィア電
気軌道Batavia Electrische Tramwegが1899年以来、バタヴィアの路面電車を運行し
ていたのだから。まるでアムステルダムのようにバタヴィアの街中を路面電車が走ってい
たことを知っている現代ジャカルタ都民は少ない。バタヴィア時代に街中をまず鉄道馬車
が走り、蒸気機関が馬を駆逐した後、電車が走るようになった。この話は別の機会に譲り
たい。


タンジュンプリオッ⇔メステルコルネリス区間の電化工事が完了して電車がバタヴィアを
初めて走ったのは1924年12月24日。メステルコルネリスからバイテンゾルフまで
の区間を電車が初めて走ったのは1930年だった。

ところが共和国成立後、電車の車両を新規に入手することができなくなり、オランダ時代
の老朽車両を騙し騙し使っていたが、結局動かなくなるものが続出した。おかげで一時期
はジャカルタ近郊路線を走る電車がなくなり、蒸気機関やジーゼル機関に頼るようになっ
てしまう。

その状況を打開したのが日本製の電車だった。1976年9月1日、電車運行再開式典が
催され、一般乗客向けサービスは9月2日から開始された。そのときのダイヤは、ボゴー
ル発05.43、06,30、10.45で、ガンビル着06.47、07.30、11.
49、ジャカルタコタ着07.04、07.45、12.04。逆向きのジャカルタコタ
発は09.06、13.00、15.00、16.00、ボゴール着10.25、14.
24、16.21、17.25となっていて、各便は4両編成で収容人数566人、途中
の停車駅は全便がデポッ・マンガライ・ガンビルに停車するようになっていた。電車運行
は他の蒸気やジーゼル列車の運行と入り混じって行われた。

その後、鉄道車両製作国有会社PT INKAが電車を作るようになり、しばらくの間は同社製
電車がジャカルタ近郊コミュータラインを走った。それが老朽化したとき、国鉄は国産車
と日本製中古車を比較検討して日本製中古車の購入に踏み切り、今現在国鉄ジャボデタベ
ッコミュータラインは稼働全車両が日本製中古車になっているそうだ。

しかし現政権は国外への外貨流出抑制のために輸入はやめるよう国鉄を説得し、国鉄はそ
れを呑んだ形になっているため、現在使われている日本製中古車が使えなくなった時に何
が起こるかはその時になってみなければ分からない。


コニングスプレイン東にもうひとつクラシックな建物がある。東インドフリーメーソンが
1900年にYayasan Kristen Carpentier Alting Stitching (CAS)の名義で設けた全寮
制の女子教育施設だ。東インドフリーメーソンが行った社会福祉活動のひとつだったよう
だ。1955年にインドネシア共和国政府はフリーメーソンの活動を禁止する方針を開始
したため、この施設はラデンサレ財団に移管されたが、1962年にスカルノ大統領が出
した禁令によって完全廃校になった。

絵画造形美術品の展示場を求めていた教育文化省が1987年にこの建物を使い始め、1
998年に中央政府がそれをナショナルギャラリーGaleri Nasional Indonesiaとして公
認した。こうしてインドネシアでも百年を超えた建物が国立の美術ギャラリーとして一般
に公開されている。[ 続く ]