「バタヴィア紀行(12)」(2020年06月30日)

その衣装のセンスときたら、まるでまともとは思えない。いったいだれがあんなものを考
えて、世の中にそんな姿でかれらを出現するようにさせたのだろうか。東インドに来てか
らプリブミが着ているいろいろな制服を目の当たりにしているところでは、概して美的セ
ンスは最悪だ。もちろん、プリブミが自分でそんなことを決められるはずがないから、だ
れがそれをさせているのかは言わずもがなだろうが。

プリブミだけでなく地方行政府役職者の日常用の制服にしても奇妙な風体だ。みんなポー
ターの帽子をかぶっている。東インドにいるヨーロッパ人も概して服装のセンスが悪く、
中にはまるでベーカリー職人かコックのようにしか見えない者もいる。


そんなことを考えていると、突然わたしの名を呼ぶ声が聞こえた。声の主を目で探してい
ると、人混みの中からネーデルランド号の水夫長アブドゥラが姿を現した。われわれはこ
の邂逅をよろこんだ。

ネーデルランド号はわれわれが降りたあとスラバヤを往復し、数日後にはこのバタヴィア
からまたオランダに向けて出港する予定になっているというアブドゥラの話で、この邂逅
が一層の奇遇であるようにわたしには思えた。

プリブミの服装のアブドゥラは洋服を着ているときよりも雄々しく見えた。アブドゥラが
この中華街を案内してくれることになり、サドをもう一台雇って二台で巡ることになった。
二台のサドはプチナンからクレイネポートKleine Poortへやって来た。左に折れて橋を渡
ると、そこが有名なカリブサールKali Besarだった。古い歴史を持つバタヴィア城市の中
央を分断するカリブサールの両岸は、VOC以来のオランダ人商業地区である。

しかしわたしの眼前に横たわっている過去の栄光を背負ったこの地区の光景に、わたしは
落胆してしまった。すべてがきたなく汚れ、ペンキはあちこちがはがれ落ち、建物は崩壊
に直面している。まるでぼろぼろのスラム地区だ。ヴェルテフレーデンの清潔で美しい邸
宅で暮らしているトアンたちが、このバタヴィアの中心的商業地区をこのように放置して
いる気持ちがまるで理解できない。

われわれはカリブサールの東と西を巡った。大型の商事会社や海運会社の事務所に混じっ
て、諸外国の領事館もある。汚い印象に埋もれてよく見えなかったが、近くで見ると華や
かなりし往時を彩ったと思われる芸術的な像や置物がそこここに見られる。アブドゥラの
話では、建物の中は東インド産のたいへん美しい大理石で作られた床がいまだに使われて
いるそうだ。しかし中がどれほど美しかろうと、外がこれでは意味がない。


カリブサールの北端にある跳ね橋をわれわれは渡った。スタッツポートStadspoort近くの
カスティル広場Kasteelpleinにわれわれは着いた。トラムの線路が走っており、停留所が
ある。そこがトラムの終点なのだ。スタッツポート別名ピナンポートPinangpoortはクー
ンが作ったバタヴィア城市を囲む城壁の跡地にある。かつてそこは、VOC役人や商人た
ちがイギリス銀貨プラフテンplachtenを集める場所だったとのことだ。昔のイギリス銀貨
には黄金が混ぜられていたそうだ。

門を通ると、広い穏やかな道路の両側には古い倉庫が並び、バタヴィアの歴史を全身で感
じ取ることができる。

アブドゥラはサドを止めると、左の方へわれわれを徒歩に誘った。そこには大きい大砲が
横たわっていた。これは神聖な大砲だ、とアブドゥラは説明する。「プリブミはこの大砲
にお供え物を置き、聖なる霊に祈りを捧げる。」

確かに大砲の周りをたくさんの飯・果実・花などが取り巻いているではないか。この古い
ポルトガルの大砲は子供を授けてくれると信じられていて、プリブミ、印欧混血、華人な
どの、子供がまだできない婦人がたくさんお参りにやって来る。大砲が参詣者の祈りを聞
き届けてくれれば、ほどなく妊娠するそうだ。

この大砲の砲身の後側に親指を人差し指の下から突き出して拳を握っている像が付いてお
り、それがセックスを意味していることから児作りのシンボルとされたように思われる。
セックスと児作りとの密接な関連性は、東インドの伝統文化の中にあったものなのだろう
か?[ 続く ]