「バタヴィアの路面電車(終)」(2020年07月23日)

日本軍の東インド占領で、1942年7月から電気トラムは日本軍の管理運営下に置かれ
た。西部ジャワ陸輸局バタヴィア市電(インドネシア語情報ではSeibu Rikuyo Batavia 
Shidenや類似の表現になっている)と変更され、後にJakaruta Shidenに改定されている。
日本軍政期には、車両等級制度が廃止されて1〜3等という区別がなくなった。またグヌ
ンサハリからジャティヌガラ手前のパルプティPal Putihまで複線化がなされている。


独立した共和国はジャカルタ市電の管理運営を掌握し、1945年10月にTrem Jakarta 
Kotaという名称でインドネシア化して運行を再開させた。1957年には国有化がなされ
て、Pengangkutan Penumpang Djakarta(現在バス会社になっているPerum PPD)という国
有会社が事業を掌握した。

ところが、オランダ植民地時代には規則に従順に秩序維持を貫いていたプリブミ市民が、
独立後いきなり公より私を優先するようになったのである。電車に乗って来た乗客に車掌
が料金支払いを求めると、「われわれは独立したじゃないか。なんでまだ金を取るんだ。」
と車掌に食ってかかる乗客があちこちに現れ、どうしようもないから車掌がそれを放置す
ると、他の乗客も「無賃客が堂々と乗っているのに、なんで私が阿保みたいに金を払う
の。」ということになって、収入面がおかしくなってしまった。

結局たくさんのプリブミが無賃で乗り込むから車内は満員になり、入れない者は窓枠に座
ったりぶら下がったりして行きたいところまで市電を使うということが横行した。同じこ
とは鉄道でも起こり、既に粛清されてかなりの期間が経過しているが、それまで行われて
いた屋根上乗車や車外ぶら下がりという現象を引き起こしていた。つまり国民は公共大量
運送に対する理解を、国家が国民福祉のために行うべきものというコンセプトにしてしま
ったのである。この現象に関連してスカルノ自伝を書いたシンディ・アダムスが、インド
ネシア国民は独立ということを理解していない、とコメントしている。

収入面での放縦に事業体内での汚職が加わり、電車の現行車両にガタが来れば新車両の購
入資金などあろうはずもなくなる。そして1960年にスカルノ大統領がジャカルタの路
面電車に引導を渡した。


スカルノ大統領はPPDに対して、市電事業はこれからの時代にそぐわないものであり、
地下鉄に変えなければならないが、それが実現されるまではバスによる公共大量運送を伸
ばして行くように、と命じたのだ。

それを聞いてジャカルタのスディロ市長は驚愕し、全線一斉廃止はしないで少なくともス
ネン⇔ジャティヌガラ間という商人層の足になっているルートだけは当面残してほしいと
大統領に懇願したものの、大統領は頑として聞く耳を持たず、ジャカルタの路面電車はこ
うして過去の歴史の中に埋没することになった。

送電架線と電柱はすべて取り払われたが、線路だけは撤去工事をせず、アスファルトで埋
めるようスディロ市長が命じたため、線路は路面下に埋まっているはずだ。2006年に
都庁がコタトゥアKota Tuaと呼ばれる旧バタヴィア城市の観光資源化向上を図ってスタッ
ドハウス一帯の整備を行った時、ピントゥブサール通りに下水管を埋設する工事の中で電
車トラムの線路が掘り出されている。[ 完 ]