「トゥガルのモチ(2)」(2020年07月23日)

サテカンビンsate kambingを売り物にするカプテンスディビヨKapten Sudibyo通りの大型
レストランは真夜中の24時に閉店する。トゥガル人の中に、サテカンビンがテポチにも
っともよく合う料理だと見なしているひとが多い。だがどんな料理も間食も、テポチに合
わないというものはない、とする反対派もいる。何かが特別だなどとは言えないとかれら
は反論しているのだ。もちろんトゥガルの町には、サテカンビン売りもテポチを飲ませる
ところもたくさんあるのだが。

トゥガル市協同組合中小事業商工局の2011年データによると、トゥガル市内には飲食
店事業者が2,822人いて、すべての飲食店がテポチをメニューに入れている。トゥガ
ル県でも似たような状況だ。街道の道路脇ですら、テポチを買って飲むことができる。

1997年から2000年までの通貨クライシスで引き起こされた不況のとき、トゥガル
県市内でのテポチは飛ぶような売れ行きだったそうだ。大量解雇のために大勢がテポチ販
売者になり、消費者の多くも倹約生活のためにモチを行った。ある飲食事業者はその当時、
一日に3〜5百セットのテポチが売れたと回想している。


トゥガル人は話し相手が現れると、モチに誘う。結局テポチに最もよく合うのは語り合い
なのだろう。夜中のレセハンテントに、ただ茶を飲むだけのためにやってくる客がいない
とは言えないものの、普通テポチのセットは急須がひとつに湯呑がふたつというのが標準
装備になっている。ひとり、あるいはもっと多くの駄弁り仲間を誘って、モチをしながら
夜を徹して語り合おうというわけだ。そろそろ閉店しようとしているときに客がやってき
て居座られたら、店主は帰ることもできない。

客の中にはテポチを一回注文しただけで3時間も居座るひとたちがいる、と店主のひとり
は打ち明けた。注意して見ていたらなんと、急須の茶が薄くなるたびにポケットから茶葉
や砂糖を出して容器に入れているのだ。茶葉と砂糖を持ち込んで追加の無料の湯をもらい、
店への出費をケチっている。結局店側は一回分のテポチセット代金6千ルピアしか払って
もらえなかった。セコい客にはこりごりですよ、とその店主は語っている。テポチに使わ
れる香茶葉はマッチ箱サイズの包装になっているから、どこにでもしのばせることができ
るのである。

トゥガル人にとって、テポチは社交に不可欠な小道具なのだ。スハルトレジームが終わっ
た後、レフォルマシ時代が開始されて政治の中央舞台であるジャカルタでひとつの形が形
成されつつあった時期に、トゥガルでは地方政治の転換が政治家たちによって、テポチを
はさんで行われたという話だ。テポチはその場に作られる人間関係を友好と融和の方向に
向かわせる。客を迎えた主人は何はともあれ、テポチを作って客に供す。一緒に茶を飲む
ことによって、客と主人の間に兄弟あるいは仲間という感情が流れ始めるのである。シン
ボル化された伝統の力がそれだろう。


トゥガルで茶を飲むことが当たり前になったのは、インドネシアで茶の栽培が行われるよ
うになるはるか以前だった、とガジャマダ大学人類学者は物語る。

トゥガルを含む中部ジャワ北岸地方は、オランダ人が来る前から中国との交易が存在し、
華人が住んでかれらの茶を飲む習慣を行っていた。特にトゥガルは大きい港があったため
に異文化の到来と受容が進んだ。華人は茶を中国から持ってきて、そこで消費した。

古くからの喫茶の習慣がプリブミに受け入れられていたこと、そして植民地支配者が茶を
作らせ、また砂糖を作らせ、村落部で焼き物産業が興り、それらがトゥガルのテポチ文化
を育んだ。加えてトゥガルの民衆はテポチを社会交際というコミュニティ文化の脇役に仕
立て上げ、こうしてモチ文化が作られるに至ったのである。[ 続く ]