「ヌサンタラのイタリア人(1)」(2020年07月24日)

VOCが地域支配を開始する何百年も前から、ヨーロッパ人はヌサンタラを訪れて見聞記
を書き残した。歴史を通して見るなら、やはり支配者民族の見聞記がマジョリティを占め
るのが当然であり、オランダ人・イギリス人・ポルトガル人の数が圧倒的だ。その中にイ
タリア人が混じっている。

フランス東洋学界の重鎮デニス・ロンバール氏の著作Nusa Jawa Silang Budayaによれば、
西暦紀元前からヌサンタラとローマ帝国の間に交通があったようだ。カエサル・ティべリ
ウス・クラウディウスの時代は元より、もっと古いカエサル・アウグストゥスの時代から
始まっていた可能性が氏の視野に入っている。ヌサンタラから出発した使節はセイロン島
経由でローマに達したようだ。

大プリニウスが紀元一世紀に著わした博物誌にはMons Maleusの話が掲載されている。
「その地では、寒い時期に6カ月間、影は北に伸び、暑い時期の6カ月間は南に伸びる」
というのがモンスマレウスについての説明だ。

マレウスという語はタミール語で山を意味するMalaiに由来し、それはタミール人のヌサ
ンタラに関する限られた知識の中で、赤道に近い唯一の山、西スマトラ海岸のインドラプ
ラIndrapura山を指していた。


クラウディオス・プトレマイオスの作品「地学」には黄金半島Chryse Chersonesosがムラ
ユ半島を指して示され、更にギリシャ文字で記されたIabadiouという名称も見つかるが、
これはサンスクリット語のJawadwipaが翻字によってそうなったものと見られている。

イタリア人のヌサンタラ見聞記の事始めは偉大なるマルコ・ポーロによる。かれはヨーロ
ッパ人がアジアへの道程を探りはじめた初期の時代に属すひとりだ。ヴェネツィアの商人
だったかれは元王朝に仕え、故郷と中国間を往復してアジア域内の旅行記を残した。ただ
し、出版されたのはマルコ・ポーロが1324年に没してから2百数十年後の1550年
代で、やはりヴェネツィア人のジョヴァンニ・バティスタ・ラムジオが行った。

マルコ・ポーロの見聞記には、実態にそぐわないものも混じっているとはいえ、現実に即
して詳細に記述されたものも見られる。その長い道程で通過したたくさんの国々について
の見聞をかれは記した。かれが中国からヨーロッパに戻るために海路を利用したとき、船
はスマトラ島のサムドラパサイSamudra Pasaiに寄港している。ジャワ島に足を踏み入れ
たことはなかったにせよ、ジャワという土地に関する伝聞も書いている。


続いてヌサンタラを見聞したイタリア人の記述は、フランシスコ修道会の修道士オドリコ
・ダ・ポルデノーネOdorico da Pordenoneの手になる。かれはローマ法王の命によって1
318年にアジアに旅立った。当時カトリック教団はアジアの各地に拠点を既に置いてい
たから先駆的な動きということではないが、それぞれの土地で少数の布教者たちが生命を
賭けた布教宣教を行っていた時代だ。

オドリコはパドゥアPaduaの町を発って黒海に向かい、更にペルシャへ進んでからカルカ
ッタ〜マドラスを経てセイロンに達した。そこから海路ニコバル諸島を通り、スマトラ島
に到着した後ジャワ島に行き、続いてカリマンタン島のバンジャルマシンを訪れた。更に
チャンパに進んでから中国に入り、1324年に北京に到着している。1327年にかれ
は北京を去り、イタリアへの帰途に着いた。西方へは内陸部のルートを取り、1330年
ごろに帰国したようだ。かれは1331年に故郷で没した。

オドリコの見聞記も、ヴェネツィアのジョヴァンニ・バティスタ・ラムジオが1570年
代に出版した。もちろん元になった記録や報告書はオドリコが存命中に提出したものであ
り、パリやローマの文書館に収められている。出版されることによって、社会にとっての
共通知識が育まれて行くのである。[ 続く ]