「ヌサンタラのイタリア人(2)」(2020年07月27日)

オドリコのジャワ島見聞記の中には、かれが訪れたとある国の王は七つの王国を従えた大
王であり、そこの島々ではクローブ・ナツメグ・コショウや他のスパイスが豊富に産出さ
れている、と述べられている。その王は広大で豪華な宮殿に暮らし、階段や屋内装飾は黄
金と銀で飾られていて、屋根も黄金で葺かれている。そしてモンゴルの王はこの国を何度
も征伐しようとしたが成功せず毎回撃退されたという話も。それらの話から、オドリコが
訪れたのはマジャパヒッ王国だったのではないかと推測されている。

オドリコの見聞記にたくさんの地名が登場するが、オドリコが本当にそれらの土地を自身
で訪れたのかどうかについては疑問であるとの声が強い。そうではあっても、出版された
この書物が当時の地理学者たちの重要な資料とされたことは疑いがない。

オドリコが残した記録がイタリア語・フランス語・ドイツ語・英語で書物になった。最初
の出版物はペサロで出され、1866年にユールがCathay and the way Thitherというタ
イトルの英語版を作った。2006年にはシンガポールの書籍店でTravels of Friar 
Odoricというタイトルの古書が見つかっている。


その次に登場するのは、ヴェネツィア商人ニコロ・コンティNicolo Contiの物語だ。ニコ
ロ・コンティは1419年にダマスカスに移ってアラブの言語と文化を習得してから東方
への旅に立った。アジア西部地方の通商交易はアラブ人が勢力を誇り、アラブ文化が浸透
していたから、そのエリアを渡るのに必要なツールをかれはまず身に着けたわけだ。当時
24歳前後のかれが西から東へと旅していたころ、中国から鄭和が西方への航海を行って
おり、鄭和の航海に従った馬歓Ma Huanが1433年に著わした瀛涯勝覧や費信Fei Xinが
1436年に出した星槎勝覧に記されている情報との突合せが可能になっている。

ニコロ・コンティはダマスカスから砂漠を越えてバグダッドに至り、ペルシャを横断して
インドに達した。インドからスマトラ北岸のペディールPedirに渡り、かれはそこで一年
間暮らした。かれはペディールで黄金の精錬法やスパイスに関する知識を吸収した。そこ
からマラヤ半島に渡って諸国各地を訪れ、最後にミャンマーへ行ってからジャワ島に下っ
た。

ジャワで9カ月を過ごした後、かれは海路ベトナムに向かい、そこから陸路でイタリアへ
戻った。ニコロ・コンティの大旅行記を世に著わしたのは、その当人ではなかった。かれ
が1437年にイタリアへ帰国する直前のシナイ山で、スペイン人貴族で旅行家のペロ・
タフルPero Tafurがかれの体験談を聞いて書き留めた。

もうひとりはローマ法王庁の国務枢機卿ポッジオ・ブラッチョリーニGiovanni Francesco 
Poggio Braccioliniで、ポッジオはニコロの話に強い興味を示し、ニコロから事細かに話
を聞き、それをDe varietate fortunaeと題する書物にまとめた。タフルが書いた物語よ
りも、ポッジオがまとめた内容の方がはるかに地理学的価値を持っていたようだ。当時ヨ
ーロッパにあまり知られていなかったアジア南部の状況にこの書物が光を当てることにな
った。ポッジオはそれを意図してニコロの話をその方向にまとめたのかもしれない。この
書物は1492年にクリストフォロ・ダ・ボラーテCristoforo da Bollateが公にした。

ニコロ・コンティはジャワについて、ジャワはふたつの島から成っていると語ったことか
ら、16世紀に作られた地図には大ジャワIava Maiorと小ジャワIava Minorが描かれてい
る。それらの島の住民はたいへん残虐で、他の地の原住民とはくらべものにならず、また
ネズミやネコなどの汚らしい動物を食べている。借金をした者が借金を返済できなくなる
と、金を貸した者の奴隷になる。住民の娯楽のメインは闘鶏で、闘鶏用の鶏飼育を職業に
している者がいる。などというのがニコロのジャワ評だ。

アジア南部の情報に飢えていた当時のヨーロッパで、ポッジオの書籍は引く手あまたとな
った。言うまでもなく、そのイタリア語版が英語・ポルトガル語・スペイン語などに続々
と翻訳された。[ 続く ]