「茶どころは西ジャワ州(前)」(2020年07月29日)

1890年にオランダのアムステルダムで西ジャワのスカブミ茶の宣伝広告が出された。
[De Parakan Salak thee onderneming Preanger Regentschappen]
プリアンガー県パラカンサラッ茶会社の生産した蘭領東インド産の茶葉がマスメディアの
発達によってオランダ本国の諸方面に宣伝されたことをそれは示している。

茶は1千年をはるかに超える遠い昔から、グローバル飲料となる道を邁進してきた。運輸
・交通・通信がきわめて不便だったあの昔から、世界制覇を目指してじっくりと歩んでき
たと言えるだろう。その世界制覇には、グローバル規模の需要をまかなうためにグローバ
ル規模の供給が必要であり、それを支えるための生産活動が世界の各地で展開された。蘭
領東インドはそのグローバル供給者の筆頭グループに名を連ねていた。


しかし今や時代は大きく変わってしまったのだ。もちろん独立後のインドネシアでも茶葉
は生産され続けた。国内市場向けの茶葉は、相変わらず国産品が満たしている。テボトル
teh botol、テコタッteh kotak、テチュルップteh celup、テポチteh pociなどさまざま
な種類がハイパーマーケットの棚には勢ぞろいしている。とはいえ、それら廉価茶葉から
ちょっと離れた棚に、価格レンジが上位にある世界的ブランドの輸入品も置かれている。

国産品のマスプロ生産者はたいてい自家用茶農園を持っていて、一般農家が作った茶葉の
大部分はそのルートに入って行くすべを持たない。市場へのアクセスが閉ざされていれば、
産物は腐るだけだ。それを見越した仲買人がやってくれば、二束三文で買いたたかれるこ
とになる。それでは先祖代々やってきた茶畑にも精を出せるわけがない。収入が支出に追
いつかなければ、道具・機械・倉庫・土地などを売り払わざるを得なくなる。こうして貧
困農民は貧困の悪循環に落ち込んでいく。一般に茶畑を持っている自作農民の生産性はた
いへん低く、Ha当たりの平均生産量は8百キロだ。国有ヌサンタラ農園会社(PTPN)
では2千キロが実現されているというのに。

先祖代々何十年にもわたって大家族を養ってきた茶畑は少しずつ少しずつ土地が売却され
るようになった。西ジャワ州プルワカルタ県ワナヤサ郡のある茶農家は往時に6Haあっ
た茶畑がいまでは1Haしか残っていない。

売られた茶畑で他人が茶の栽培を行うような時勢ではないのだから、土地は他の用途に使
われれるのが確実で、こうして国家的な茶の作付面積は減少の一途をたどっている。

農業省農園総局の2009年データによれば、全国の総面積123,506Haの茶畑の
うち78.2%に当たる96,652Haが西ジャワ州にある。全国の茶葉総生産量は1
56,901トンで、西ジャワ州のシェアは71.2%だ。西ジャワ州では、茶畑の51.
3%が農民の栽培する茶畑であり、PTPNの農園は31%を占め、残りが民間企業の経
営する農園になっている。


インドネシアにおける茶木の事始めは1648年のことで、中国から持ち込まれた茶木が
バタヴィア城市内のエリート地区テイヘルツフラフツTijgersgrachtの邸宅に観葉植物と
して植えられたのが最初という話だ。

1728年にVOCは茶木の種と労働者を中国からジャワ島に輸入した。バイテンゾルフ
の植物園で茶木の栽培が行われ、1826年にバイテンゾルフ周辺で商業栽培がテストさ
れ、1827年にガルッGarut県で量産トライアルが進められて、1829年にガルッの
チスルパンCisurupanとプルワカルタ県ワナヤサで量産が実施された。

オランダ人がプリアンガーPreangerと呼んだ西ジャワの高原地帯で茶農園が津波のように
広がって行ったのは、thee jongkers van Preanger(英語ではPreanger planters)と呼
ばれた民間農園事業主たちの存在なくしては成り立たないものだった。1840年代に始
まったその動きは、社会的名士としてのオランダ人茶農園事業主を輩出させた。1844
年のスカブミ県パラカンサラッにおけるGLJファン・デル・フークGuillaume Louis 
Jacques van der Hucht、1865年のガルッ県ワスパダにおけるカレル・フレデリック
・ホレKarel Frederik Holle、あるいは1857年のアドリアン・ヴァルラーフェン・
ホレAdriaan Walraven Holle、1873年スカブミ県シナガルのケルクホーフェンRE 
Kerkhoven、1896年バンドン郊外マラバルのボスカKarel Albert Rudolf Bosschaた
ちがそれだ。[ 続く ]